ついに元号が変わりましたね。外では若々しい新緑が萌えているのも相まって、なんだか気持ちも新たになったように思えます。日本人は元号もそうですが、自然の変化に自分たちの気持ちを乗せていくことが得意のようです。自然がサトル・ボディになっているのでしょう。
さて、サトル・ボディ…「悟る・ボディ」ではありません。subtle bodyです。あまり聞きなれない言葉ですがユング心理学ではよく出てくる考え方です。subtleは「微細な、微妙な、とらえにくい、ほのかな」などという意味です。つまりサトル・ボディとは微妙で繊細で、目には見えないイメージの身体というものです。よく、こころと身体と対比されますけど、こころは目に見えない微細なもので、身体は見えるさわれるものとして対比されますね。しかし、サトル・ボディはこころのように目に見えない身体…え?身体は肉と骨、血液などでできていて見えるしさわれるし、とお思いですよね。サトル・ボディはものとしての肉体とこころの中間的なもの、両方が入り混じっていてそのどちらでもないものです。半ば精神でもあり半ば身体でもある存在ですね。また、ボディといっても、身体に限らずボディを物質と考えてください。機械も動物も、石も木も、絵もおもちゃもサトル・ボディとなり得ます。さらに、中間的な領域もサトル・ボディと呼ばれます。精神と身体が出会って入り混じる場所ですね。そしてこの領域ではいろんな統合、結合が起こります。精神と身体が入り混じる場ですからね。分析を得意とする意識の能力は弱まります。身体とこころだけでなく、こころの中でも意識と無意識、自我と抑圧されたもの、好きと嫌い、善と悪、人間と動物、過去と未来等々が入り混じって体験されることが起こります。こころと身体はつながっているとか関係が深いというのは一般的にも納得されると思いますが、それは単に影響し合っているというのではなく、ふたつが入り混じった表現しにくい世界があるというように理解していただいたほうがよいかと思います。ですので、サトル・ボディは精神でも物体でもない、第三のものとか第三領域とも言われます。
ところで、サトル・ボディが精神と身体の中間的な存在として「微細な身体」というなら、逆の表現で、「身体的・物質的な精神」というものもあるはずですね。ユングは「somatic unconscious(老松克博先生は身体的無意識と訳しています)」とかサイコイドと表現しています。サイコイドはpsychoidというスペルです。この-oidとは~のようなもの、~的なもの、という意味の接尾語です。psychは精神とか心理の意味ですから、つまり精神っぽいもの、という意味ですね。類心的と訳されています。精神かと思っていたけど、身体的、物体的な要素もあるので、こころとか精神と言い切れない存在や領域ということです。つまり、身体かと思っていたら精神のようでもあったので、サトル・ボディ、精神かと思っていたら身体的でもあったから、身体的無意識やサイコイド、というわけです。ユングも身体的無意識とサトル・ボディは等しいと言っています。そうするとなぜ心理臨床家がサトルボディに関心をもつかおわかりいただけると思います。こころをあつかっているうちに、こころなのか身体なのかわからないモノや現象や出来事に出会うわけです。というより、こころは見えないしさわれないので、あつかえない。あつかうためには物体化、実体化しないといけないわけです。精神が表現されたモノはただの物体でなくサトル・ボディとなってきます。
そのようなサトル・ボディが出現するには、イメージ、想像が必要とされています。こころをものに入れ込んでいくには、イメージで行うわけです。心理療法においてイメージが重要とされるのはそのためです。深いイメージに入ると、精神とも物体とも言えないモノが出てきたり、そのような空間ができあがってきたり、現象が起こったりします。
箱庭療法やプレイセラピーがなぜ効果があるのかの秘密がここにあります。箱庭療法のフィギュアはたんなる物体ではなくて、こころが入れ込まれたサトル・ボディになっている。サトル・ボディとなったフィギュアをあつかっているうち、こころにも変化が現れるんです。当然身体にも影響が出ますので、心因性の身体疾患にも効果が出てきます。ただのフィギュアとしてあつかっていると効果は出ないので、セラピストもクライエントもいかに箱庭のアイテムをサトル・ボディと化すか、イメージを使ってこころを入れ込んでいくかがキーとなるわけです。これは他の心理療法の技法にも通じます。科学的とされる認知行動療法も、医師が行う薬物療法でさえサトル・ボディがなければ効果は薄いでしょう。プラシーボ効果なんてありますが、あれは薬(偽の薬)という化学物質がサトル・ボディになっているんですね。
私も心理療法家として、こころをあつかっているうちにそれらが物体化、身体化している現象に出会ってきました。そして、合気道を修行して身体をあつかっているうちにこころが入れ込まれないと技の効果がなく楽しみも少ないという現象にも出会ってきました。
合気道ではサトル・ボディを「気」とか「呼吸力」とか「統一体」などと表現しているようです。合気道開祖の植芝盛平翁は「魂魄(こんぱく)」とか「天の浮橋に立つ」という表現をしています。もともとユングがサトル・ボディに興味を持ったのはインドのヨガであり、西洋版のヨガである錬金術、中国の錬丹術からですね。(サトル・ボディはそれらの中で微細心、賢者の石、金剛の身体、霊妙体などと言われます。)その日本版が合気道でないかと思うのです。合気道では心理療法同様イメージをよく使います。気が出ているイメージをしたり、臓器としては実在しない「臍下丹田(せいかたんでん)」に意識を集中したりします。また相手の気の流れをイメージし導く練習をします。これらはまさにサトル・ボディをあつかっています。
そして、そのような修行を続けると、肉体ではなく相手のこころに技をかけるという技法が使えるようになるようです。植芝盛平翁は、肉体である「魄(はく)」の上に、あるいは表に、「魂」を出さなければならない、と繰り返し述べています。「魄」とは肉体、物質のことです。その上に「魂の花を咲かせ魂の実を結ぶ」という、とても詩的で美しい表現をされています。またやはり繰り返し、「合気道は天ノ浮橋に立たなくてはならない」と言っています。「天の浮橋」とは、古事記に出てくる、高天原と中津国、つまり天と地をつなぐ橋ですね。つまり精神と物質の中間領域であり結合が起こる場です。そこに立つと言っている。そして相手を破壊する武道は「魄」だけの武道で「魄力はいきづまる」「合気道は魂魄の調和が大切」としています。もちろん、肉体たる「魄」も大切にするようにとも言っています。サトル・ボディは身体とは限らないと申しましたが、合気道は文字通り身体をサトル・ボディにしているのでしょう。
これらは単なる道徳的なお題目ではなく、実際に技においても、イメージを使うことでこころを使った技ができてきます。ユングが注目したサトル・ボディを出現させるわけで、私としては心理療法と同様の効果が生まれてくると思っています。自分のこころと身体を調和し、自分と他人のこころと身体を調和することで、人のこころを癒し成長させる空間を作り出すことが可能となるのではないでしょうか。
合気道でよく議論になる手をふれず倒すとか気で吹っ飛ばすというのも、あれはサトル・ボディとして考えないといけないですね。投げる人と投げられる人(受け)のこころと身体が混然となって区別ができない、サトル・ボディとなった場合にのみあの現象が成立する。だから、格闘技のリング上や街での護身術としては使えないでしょう。だって格闘技の相手や通り魔は相手と調和する気なんてなく、物質としての身体を壊そうとしてくるんですから。じゃあ、合わそうとする相手としか成立しないなら、やはりインチキか?と思われるかもしれませんが、サトル・ボディはそんな甘いものではありません。普通は合わそうとしても合わない。意識的に合わそうとしているうちはサトル・ボディが出現しません。自我の力、つまり精神の要素が強すぎるからではないでしょうか。精神と身体、自分と相手を結びつけようとする修行を重ねて、それらが意識しないでできるようになってからなんとか成立できるかということだと思います。本当に高度な現象です。ですから、あの演武は調和した人間関係の可能性を示すもの、人間同士はこのような物質を超えた関係性が成り立つという調和の可能性を示すためのものなのではないでしょうか。まさしく令和の顕現ですね。
心理療法においても、サトル・ボディを必ず出現させる方法はありません。でもその可能性というか機会を増やすのが様々な心理療法の技法なんでしょうね。当相談室では箱庭と合気道を主に使っていこうと思いますが、もちろん対話でも生じます。対話しているうちにセラピストが親に見えたりとか、部屋がとても安心できる空間になるとか、単なる身体や部屋ではないと感じることがあります。同様に過去のトラウマと今のこころが統合されたり、認めたくない自分の欠点を受け入れたり、合理的な思考と感情が結びついたりします。そのときサトル・ボディが出現しているのだと考えています。
結構長いブログになってしまいましたが、私は心理学も合気道もまだまだ未熟で、ここに書いたのはどうも理想論というか理念、つまり精神、思考的ですね。実際、合気道で手を触れずに技をかけることはできないし、セラピーもまだまだ…。これからも修行していきます。
最後に、ひとつご注意を。サトル・ボディにはオカルト的な匂いがつきまとってしまいます。気をつけなくてはならないのは、サトル・ボディで起こるような現象を意図的に起こせると語る人です。それは自分の自我の力でサトル・ボディをコントロールできるという精神のルールに偏った見方ですし、超能力とかと結びついていると、物理現象を引き起こせるという物質のルールに偏った効果を主張しちゃっています。サトル・ボディは精神でも物質でもないので、意図的にコントロールできないし速攻で物質に効果があるものではありません。いくらスプーンがサトル・ボディになっても曲げられません。でも曲がることに人生の存在の意義があるときには(偶然)曲がります。自我に都合のよい欲望はかなえられない。癒しや性格の変化や自己実現といった現世ご利益を確実に簡単にお手軽に手に入ると訴えてくる言葉にはご用心ください。