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ムーミン谷のカウンセリング

 

 10連休で行かれた方もいらっしゃると思いますが、埼玉県飯能市にムーミンバレーパークができましたね。フィンランド、ナーンタリのムーミンワールド同様、素朴で自然を感じられるまま展開していってもらいたいものです。

 私にとってムーミンは大学時代に出会ってずっとこころの一部を占めてきた文学作品です。北欧の美しくもさびしさもある自然のなかで、人の心理も美しくさびしく、切なく描かれていきます。すぐれた文学作品は読者ごとにいろんな受け取りができるもですが、大学時代の私にとっての大きなテーマとして感じたのは、成長にともなうさびしさ、そして自由の心地よさとさびしさ、でした。成長とは強く大きくなるだけでなく、子どもとしての自分やそれまでの関係性とのわかれでもあります。ムーミンは、微笑みながら泣いているような、なんとも切なくさわやかなお話が多いように思います。

そして、それは心理療法のもつ側面でもあるように思います。今回は一番心理療法に近いお話を取り上げます。『ムーミン谷の仲間たち』という本にある「目に見えない子」という短編です。ムーミンは推理ものやどんでん返しのある内容ではありませんが、一応以下はネタバレ注意です。

 

 

「目に見えない子」はムーミン屋敷にニンニという少女が連れられてくるところからはじまります。ニンニは、「ニンニのことをほんとうはすきでもないおばさん」に育てられていたそうです。そのおばさんからひどくいじめられたとのことでした。体罰や強制があったわけではありません。おばさんは怒りっぽい人ではありません。しかし「氷みたいな皮肉」を言うのです。ニンニは毎日毎日、一日中皮肉を言われているうちに、青ざめていってしまって、はしのほうから色あせていき、だんだん見えなくなっていって、とうとうまったく姿が見えなくなってしまったのでした。そしておばさんは見ることのできない子の世話はできないとトゥーティッキ(日本語訳では「おでぶさん」とてょっとかわいそうな翻訳があてられています。)にあずけてしまうのです。そしてトゥーティッキはニンニをまた見えるようにしようとムーミン一家のところに連れてきたのでした。これは心理的虐待のメタファーとしてこころをうたれます。保護者から冷たい嫌味を言われ続けて自信も個性も存在すらも見えなくなってしまう。身体的、性的虐待や食事を与えられないといった命にかかわるネグレクトでなくても、人は自分らしく生きる力を失ってしまうのです。トゥーティッキは現代でいうところの民生委員とか児童相談所の職員といったところでしょうか。このキャラクターはとても面白い存在で、『ムーミン谷の冬』ではムーミン谷の住人はほとんど冬眠しているなかでも起きていて、やさしくというよりわりとドライにムーミンを導き成長させる役回りとなります。穏やかに安定しているムーミン一家と外のきびしい世界とをつなぐ役目なのでしょう。

 

 さて、ムーミン一家のもとでニンニはとても暖かく迎えられます。メインはやはりムーミンママです。ムーミンパパが「医者につれていったもんだろうか。」と問いかけると、ママは「わたしはそうは思いませんわ。きっとこの子は、しばらくのあいだ、見えなくなっていたいと思ったのよ。」とそっとしておくことを選びます。しかし、ただそっとしておくのではなく、リンゴやジュース、キャラメルを枕元に置き、「すきなだけ、おねぼうしてもいいのよ」「こわくなったり、なにかほしいものがあったら、下におりてきてすずを鳴らしてね。」と自由と保護を約束します。そして祖母から引き継いだお手製のくすりも作ります。ママとムーミンたちのやさしさに触れ、ニンニは足から、そして胴体まで見えるようになります。その段階でママは地味なニンニの服を見て、服とリボンを作ります。その服装を身に着けたニンニは「みなさん、いろいろとありがと」とはじめて口をききます。ニンニはとてもお行儀のよいしつけのよい子でした。

 胴体まで見えるようになると、ムーミンとちびのミイは差別偏見なくいっしょに遊ぼうとします。しかしニンニはおつきあいであそんでいるだけですこしもおもしろがっていないとわかってしまいます。細い足でいわれたとおりにはねたり走ったりしますが、すぐに両手をだらんとたらして立ち止まってしまいます。おもしろい話をしても、ちょうどいい場所でわらうということもないのです。これも虐待を受けた子どもの描写としてとてもリアルですね。

 そんなニンニにちびのミイはいらだちます。やさしく過保護になりがちなムーミンと違って、ミイは遠慮なくニンニをどなり檄を飛ばします。ムーミン「この子はあそぶことができないんだ。」ミイ「この人はおこることもできないんだわ。」「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたはじぶんの顔はもてません。」「あんたにはいのちってものがないの?」と。表面的なやさしさは出さないミイですが、真実を見抜き指摘するのは意地悪からではなくてニンニへの思いやりでしょう。

 

ニンニはムーミンママたちのやさしさで、顔以外の姿は出てきたのですが、ずっと顔は見えませんでした。やがてムーミンとミイはあきらめムード。ママも効果はないと思い投薬もやめてしまいます。

 その状況打破のきっかけはとつぜんやってきます。一家で海岸に行くことになりました。ニンニははじめて海を見て、海が大きすぎると泣き出してしまいます。なぜ大きいと泣いてしまうのか…論理的に説明は難しいですが、傷ついた子どもが学校のクラスや学年集会や行事に参加できない心理と共通なのでしょうか。彼ら/彼女らは人数が多すぎる場所には入れないようです。

 さて、ムーミン一家の海岸ですが、ここでムーミンパパが重要な役割を果たします。いたずら心を起こしたパパは、ママを桟橋から海につき落とすまねをします。ママの後ろからしのびよるパパ。しかし、パパの悲鳴が響きます。ニンニの見えない歯がパパのしっぽにくいついたのでした。ミイは「ブラボー!」と大喜び。そして、次の瞬間、ニンニの怒った顔が見えていたのです。「おばさんを、こんな大きいこわい海につきおとしたら、きかないから!(許さないという意味でしょうね。)」ムーミンも「見えたよ、見えたよ!とってもかわいい子だよ!」と大喜び。パパは「まったくかわいい子だわい。」と言いつつ「こいつはわしが見たうちでいちばんばかな、いちばん手のつけられない、いちばんしつけのわるい子だな。」と言います。さらに、海に落ちた帽子をとろうとして、海に落ちてしまいます。それを見たニンニは「なんておもしろいんでしょう!」と、桟橋がぐらぐらゆれるほどの大笑いをします。その姿を見たトゥティッキ「あんたがたはあの子を、すっかりつくりかえちまったようね。ちびのミイ子より、なおわるくなったわ。でも、かんじんなのは、もちろん、あの子が見えるようになったってことだわ。」

 

 このお話にはカウンセリングの過程のほとんどが描かれているといってもよいのではないでしょうか。まずママに示されるような保護と受容、そして投薬。しかしある程度効果はあったものの胴体までで、顔が見えニンニが自分の感情を表出できるまでにはなりませんでした。それ以上の回復にはちびのミイが指摘したように、怒ることに代表される感情、そして自分の感情や意志、存在を貫き守るためのたたかい、つまりは自分のいのちを精一杯表現しなくてはならないのです。もちろんそれはやれと言われてやれるものではありません。この子に必要なものはこれだとわかっていても、ムーミン一家も与えてあげることはできません。受容し保護してニンニが自ら手に入れるのを待つか、ミイのようにけしかけて引き出そうとするか、いずれにしても本人の自己回復力が必要となります。そしてそれも無理となったときでもそのままのニンニでもいてよい場として機能し続ける、それがムーミン一家にはできたのです。これはカウンセリングの基本中の基本であると思いますがどうでしょう?

 そして、決定的な解決は偶然のときが訪れなくてはなりません。海岸に行くという体験がニンニを変えます。しかもそれはこころの傷つきから立ち直るのに必要と考えられていたすべてが凝縮された体験でした。まず、パパのいたずらからことが起こります。遊びやいたずら心は心理療法にもとても大切な要素です。真面目は価値あることですが、どうしても硬直を作りがちです。停滞しているときには、遊びといたずらが必要なのです。そして、ニンニはついに行動します。それまでおどおどしていた被虐待児は、感情を爆発させて怒りかみつきます。ミイの予言通り怒りとたたかいがニンニの顔を取り戻させたのです。怒って当然のときは怒ってよいのです。ときにはたたかうことも必要なのです。でも以前のニンニは自分に自信がなく、怒ってよいのかの判断も自分でわからなかったのでしょう。

 そして怒ることを可能にしたのはムーミンママへの愛情、愛着でした。ママの受容と保護、共感がすべてのベースとなったのです。カウンセリングでも、それなしではいかなる技法も有効に働きません。ニンニはママに大切にされることで自分の価値をほのかにでも感じ始め、そんなやさしいママのために怒る自分の感情を信じることができたのでしょう。

 そして怒りの後には笑いがきます。それも桟橋がゆれるほどの大笑い。深くこころが傷ついた人(特に子ども)の中には、自然や動物、もっと言うと物事の根幹とつながっているような方が時々います。ニンニの笑いは世界全体の笑いです。もうひとつ大事な点として、パパが言うように、ニンニが悪い子になったという点です。これも心理療法の終結、ないし過程でよく出現します。癒しや自己実現には、悪、影との統合が必要です。お行儀のよいニンニはおばさんに合わせて作られた顔です。これまでの自分は機能しなくなっている。それまでかかわってこなかった影の自分を統合することで、膠着は打破されます。昔の状態をよしとする人からは、悪くなったと思わるかもしれません。物語には描かれないのですが、きっとニンニと再会したらおばさんは、なんて悪い子になったの、となげきそうです。でも、偽りの良い子で顔が見えないより、トゥティッキが言うように、悪い子になっても顔が見えることが一番ですよね。

 

保護と受容、投薬(技法)、遊びといたずら、感情表出、影との統合、自分らしさの獲得。本当に心理療法をそのまま描いたのではないかと思うようなファンタジーですね。

ムーミンの物語はほかにも人間の心理描写がすばらしい。特に『ムーミン谷の冬』からはじまる後期作品はその要素が強くなっていきます。ご興味のある方、心理療法家のみなさんもぜひ読んでみてください。ちなみに、作者のトーベ・ヤンソンはフィンランド人ですが物語はスウェーデン語で書かれています。フィンランドでは少数派であるスウェーデン系でした。そして、レズビアンであったようです。ただ、スナフキンのモデルである男性には恋愛感情があったようなので、バイセクシャルかもしれません。作者のマイノリティ性が作品に深みを与えているのかもしれません。