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幽霊論ー幽霊は心身一如と矛盾する?ー

 今回はいきなりの幽霊論です。こころと身体ということを考えるうえで、この幽霊という存在にぶつかりました。

 私の子どものころは、夏休みというとテレビで幽霊番組が始まり、お化け屋敷も遊園地や商業施設にオープンする、まさに幽霊の季節でした。最近は減っているのかな?遊園地はよくわかりませんが、テレビでの幽霊番組は減りましたね。オカルトや偽科学はよくありませんが、人が幽霊を怖れたり感じたり、影響を受けてきたのは事実です。今回は幽霊に対して私が抱いた変な疑問からの考察です。

 

 

 さて、東洋、あるいは日本の伝統的な身体とこころの考え方は心身一如と言われます。こころと身体は分けて考えられないということですね。逆に現代人や近代以降の西洋人の発想は心身二元論と言われます。哲学の難しい議論は私もついていけないので、日常感覚で考えますが、心身二元論はこころと身体は別のもので、分けて考えるべきという発想です。近代医学はこの発想で大成功しています。身体をものとして考え、悪い部分を手術で除去したり身体に入り込んだ菌に効く化学物質の薬を入れて退治する。身体を物質と考えるときは、精神はちょっとおいといて考えないということになります。心理学でも、行動療法はこの考えを使います。心理は扱えないから、目に見えて計測できる行動だけを扱いましょう、行動さえよくなれば、クライエントさんの幸せにもつながる、ということです。魂や精神はわけわからないんだからむしろ扱うのは非科学的だしかえって不誠実ということになります。

 

 一方、東洋や日本人は伝統的にはこころと身体は分けていません。医学(というか治療法か)でいうと漢方やハリ治療や気功なんかそうですね。身体全体の気の流れを見て一部が悪いとは見ない。心身全体を整える発想です。宗教の修行や武術・武道もそうです。近代スポーツでは身体のトレーニングと人格の向上は無関係ですが、武道・武術はそれらがワンセットです。身体技法が向上すれば人格も向上する、人格が向上すれば身体の動きもそれにふさわしくなる。

 

 まあ、ここまでは東洋論、日本論、心身論でよく語られることです。なかば常識的と思われています。近代西洋と異なり、日本の伝統的な考え方は、心身は分けられない心身一如である。

 

 …あれ?でもそうすると、幽霊はどうなるのでしょう?だって幽霊は肉体が滅んでも魂だけで動いている。精神だけの存在ですよね?遺体はお墓の中、あるいは野辺に捨てられている。でも精神だけで動いている。こころと身体が分かれているではないですか。源氏物語の六条御息所は生霊となって夕顔を殺してしまいます。嫉妬という精神の力だけで行動しています。生霊として魂が身体から抜け出て襲ってくるのですよね。怖い話だけでなく、子育てする幽霊というのもいます。母親が幼い子どもを残して死んでしまい、幽霊となって飴を与えてたりするという切ないお話もあります。

 

 日本の伝統的な物語では、妖怪とか幽霊がたくさん出てきます。(私もこういう話大好き!)妖怪や祟り神はなんとなく動物的でもあり道具とか物体の要素もあって心身一如的ですが、幽霊、怨霊、死霊、生霊、は明らかに物体と別に存在しているように感じられます。日本の昔の人たちの発想はこれまでの議論と異なり、心身二元論だったのでしょうか?

 これは哲学的な難しい議論ではなく、一般の人の素朴な感覚としてどうだったのかということです。

 

 ここで考えなくてはいけないのは、心身一如はこころと身体の関係の理想的な境地だということです。つまり日本でも、心身一如が普通の状態ではなく、修行で達成される境地だということです。逆に言うと、昔の日本人も心身が分かれるのが普通であったということなのですね。そもそも心身はひとつであったものが、今は分かれているので、その状態を取り戻すというのが日本人の理想的な状態だということです。

 素朴に考えればこれは当たり前で、昔の日本人がみんないつも心身一如であったわけはない。宗教家でいえば肉体の欲求である煩悩に精神が悩まされるし、武道家が恐怖から身体が動かなくなるなんていうのは、人であれば古今東西関係ないのです。心身二元論を展開した西洋の哲学者だって、自分たちの実感と完全にずれた論を展開することはないのでしょう。常識的に考えると、人は普段は心身二元論的存在であり、そこから修行を通じ一如にもっていくことが理想であるというのが日本人(あるいは東洋人)の思想ということになるのでしょう。

 

 で、幽霊です。幽霊というのは、どういう人がなるのでしょうか?それは、強い恨みや心配を残して亡くなった人(生霊もいるけど)ですね。四谷怪談のお岩さんは夫への恨み、皿屋敷のお菊さんは奉公先の主人への恨み、牡丹灯篭のお露さんはもともと幽霊でしたがあきらめきれない恋心で出てきます。六条御息所は嫉妬、子育て幽霊は子どもへの愛情、菅原道真は左遷への恨み、貞子は世間への怒り、復讐心…などなど心残りのある人が幽霊となる。

 つまり、精神だけが暴走している状態です。心身は分かれやすいものですが、強い感情によってこころだけで判断し動いてしまう状態、心身二元論の極限が幽霊なのでしょう。だから幽霊は基本的には日本の美意識、理想状態からは真逆です。幽霊は心身一如という理想を忘れ、精神だけを重視して執着している状態なのではないでしょうか。

 

 そして、幽霊を成仏させ解決するのが仏教の僧侶というのがまた興味深いですね。だってそもそも仏教には幽霊は想定されていません。49日で生まれ変わりますからね。あるいはごくまれに悟りを開ける。もちろん、悟った人は幽霊にはなりません。仏教では悟りか転生しかないので、幽霊はいないのです。(原始仏教ではです。日本の仏教は神道との混合で鎮魂やお祓いの行が混じっているのでしょうが、それは壮大なテーマになるので今回はそこはおいておきます。)

 

 なのになんで僧侶が幽霊に対応できるのか…?結論から言いますと、心身一如から外れている幽霊を心身一如に戻すという発想で対応しているではないかと考えます。感情だけが暴走して魂だけの存在となり、自分が物質とともにある存在であることを忘れた存在である幽霊をなだめ、慰め、説得し、その感情の暴走と執着をはらってあげる。そしてもう身体はなくこの世にはいられないと気づかせる。それがうまくいくと幽霊は心身一如という理想状態を取り戻し、自分の身体がもうないことを理解し、穏やかに成仏する、つまり消えてゆく。そういうメカニズム(?)が僧侶による供養なのではないでしょうか。侍は幽霊にならないとも言われていたようですが、修行し心身一如状態になっていた侍は、合戦や勝負で負けて死んでも心身一如が崩れないからなのではないでしょうか。

 

  ちなみに、心身一如という言葉自体、仏教からです。禅僧栄西が用いた言葉であると 湯浅泰雄著「身体論」講談社学術文庫 にありました。禅の境地に達した人も幽霊にはならないし、その教えを説法していくのが僧侶の幽霊退治なのでしょう。

 

 

 そう考えると、心身一如をベースにした心理療法も似たようなものなのかもしれませんね。クライエントさんを幽霊と一緒にしているわけではありませんが、精神(主に感情)が身体や自然との調和から外れて苦しんでいるという意味でです。それが調和に戻ることを支援するのが心理療法なのではないのでしょうか。

 

 

 最後までお読みくださったみなさま、昔の日本人は心身一如なのに、なんで幽霊がいるの?という私の変な疑問にお付き合いくださいましてありがとうございました。仏教も日本思想も素人なので的外れな意見もあったかもしれませんが、またいろんなテーマで書いていきたいと思います。