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ムーミン谷のカウンセリング② ースナフキンのコンプレックス

 さて、ムーミンについてのブログ第二弾です。今回はみんな大好き、スナフキンについて書こうと思っています。

 スナフキン…孤独と旅を愛する吟遊詩人ですね。ムーミンたちからするといっしょに遊べる友達でありながら頼れる兄貴分であり、あこがれの対象です。ピンチのときも沈着冷静、知恵も知識もある。そして何よりも大切にしてるのは自由。立場も行動もそうですが、内面の自由もとても大切だと思っているようです。だから定住はしないし、ものもあまり持ちません。物欲のとらわれからも自由ですし、人間関係にもしばられない。ムーミントロールに友情を、ムーミン谷に愛着を感じつつも、べったりにはなっていない。かといって冷たいわけではなく、年下の友人や子どもたちへのやさしさも持ち合わせています。

 

 クールなかっこよさしかもっていないようなスナフキンですが、シリーズ内で何度か感情的になり、いつもの冷静さを失うエピソードがあります。(例によってネタバレあります。)

 

 

 まず最初に、感情を抑えきれないあまり、テロを行ってしまう(!)のが『ムーミン谷の夏まつり』という初期作品です。「わるものを、やっつけちゃうんだ。」とスナフキンが向かう先は、公園です。その公園は管理人である公園番が立てた「~禁止」「~するべからず」という立て札だらけで、木も四角く刈られ、道も真っすぐ、草ものびるとすぐ刈られてしまうのです。

 そんな公園にも子どもたちがくるというのですが、その子たちは「なにかわけがあって、おきざりにされたり、まいごになったりした」子どもたちです。(うう~ん、ニンニ同様、虐待の匂いがしてきましたね。昔の孤児院(現代日本では児童養護施設と言います)のような…。余談ながらムーミンシリーズの初期作品には第二次世界大戦の影響があるようです。)

 子どもたちは木登りや走り回って遊びたいのですが、公園番がそれを認めてくれません。禁止のルールでしばっているのです。

 そんな禁止だらけの公園をスナフキンは許せない。で、過激な行動に出ます。ニョロニョロを公園番にけしかけて驚かし、そのすきに立て札をかたっぱしから抜いてしまうのです。ただ抜いただけじゃなくて、踏みつけているという描写もあるので、自由の反対語である禁止やべからずという言葉が本当に憎いのでしょうね。でも、これは…テロ行為に当たるのでは?現代なら撮影されてSNSでさらされたら、炎上案件ですね…。

 とにかく、いつも何事も、「我関せず」的なスタンスのクールなスナフキンにしては、珍しい行動ですし感情の乱れ方です。

 

 これはスナフキンのコンプレックスではないでしょうか。コンプレックスというのは、ユング心理学の用語で、一般的に使われる劣等感という意味ではありません。コンプレックスは「感情に色づけられた心的複合体」などと訳されます。簡単に言うと、複雑な思い、とでも言いましょうか。ある対象にその人の様々な感情が投影されて、その人にとって感情をかき乱されてしまう現象、あるいはその対象物のことです。例えば、まじめに生きてきた人が、ちゃらんぽらんな不まじめな人に対して、けなしつつ本当はあこがれていたりすることです。マザーコンプレックスというといい年をして母親に甘えていることと思われるでしょうが、実際には甘えつつ攻撃していたり、離れたがっていたりします。相反する感情が混じっているので、動きがとれなかったり、過激な行動に出たりします。母親に、くそばばあ!などと言うのもマザコンですよ。だって冷静なら他人にそんな悪態ついていいわけない。マザーコンプレックスにとらわれているからこその行為です。心理療法的にはコンプレックスを自覚していくことは大変重要です。

 

 つまり、スナフキンは自由と孤独へのコンプレックスがあるのではないでしょうか。単に自由を愛しているだけでなく、自由であることの不安やその正当性への疑い、奪われることへの怖れ、などをかなり持っているのではないでしょうか。だから、自由でない存在を、まあ、そういう人もいるよね、そういうこともあるよね、などと穏やかに見ていられない。スナフキンのコンプレックスが刺激されてしまうから。

 スナフキンは自由や孤独を愛し求めるあまり、かえってそれらへのこだわりとなって自由を失っているようにも思えます。とらわれないでいようという思いにとらわれている。

 

 そして、これがムーミンシリーズのすごいところなんですが、スナフキンがそのコンプレックスからも自由になるエピソードがあることなんですね。スナフキンの自己実現の物語がある。

 

 それは、前回書いたニンニも登場する『ムーミン谷の仲間たち』のなかにある「春のしらべ」という短編です。ムーミン谷にむかっているスナフキン。しらかば林の中を歩くスナフキンはとてもしあわせです。頭のなかで歌ができつつあるのです。でも、ムーミン谷についてそれをムーミントロールに聞かせることを想像すると、心配になってしまいます。ムーミンはその歌をほめてくれるでしょう。しかしスナフキンにとって、ムーミンからあこがれられ崇拝されることは、あまりありがたくないことです。それも自由をしばられることになるから。だから、ムーミンはすばらしいやつだと言いながら、今はあいつのことを考えてはいけないと思います。歌に集中しないといけないと思いなおし、ムーミンのことをすっかり忘れることに成功します。

 しかし、キャンプをして夕食をとり、いよいよ歌をつかまえようとするとき、小さな‘はい虫’がやってきます。この‘はい虫’というのはムーミンシリーズに何度か登場する小さい生き物で、共通する性格としては臆病で恥ずかしがり屋、引っ込みじあんです。この‘はい虫’は、スナフキンのことを知っていて、前からあこがれていたのでした。おどおどしつつもずうずうしくスナフキンの焚火にあたり、「ぼく、このことを一生わすれませんよ。」「あんたを見かけたことはこの辺では大事件なんです。」「あんたは、あらゆることを見てきたんだもの。あんたのいうことは、いちいちもっともです。」などとスナフキンをほめちぎり崇拝を示します。ここは芸能人やスポーツ選手、有名な学者に会った一般人のような反応ですね。

 しかし、歌の作成は邪魔されるし、崇拝されることなんて求めていないしありがためいわくなスナフキンは不機嫌にあしらっているだけです。うんざりしつつ、スナフキンは‘はい虫’に名前を聞きます。すると「ぼく、あんまり小さいもので、名まえをつけてもらえなかったんだ。」そして、あこがれのスナフキンから名前を聞かれたことで大興奮してしまいます。名まえをつけてもらえなかったというものとても悲しいですね。これは誰からも相手にされなかったということで、自分らしさも自己肯定感も育っていないのでしょう。だからこそ、だれかを過剰に崇拝してしまう。

 過剰な崇拝をし、しかも「だれかがあんたにあこがれていて、もういちどあいたいあいたいと思ってまっているのを知るのは、さぞ気持ちのいいことでしょうね。」などと自分の思いを投影してきます。だれかに崇拝されたいのは‘はい虫’のほうなのです。

 さらに、ムーミントロールがスナフキンを待っているという情報もこの‘はい虫’は教えてくれます。スナフキンは、友達であるムーミンでさえ、期待されて待たれることはいやなのです。それは自分の自由を奪われることでしばられることだから。愛情や友情もスナフキンにとっては束縛なのです。

 

  名無しの‘はい虫’は興奮のあまり、スナフキンに名前をつけてくれるよう頼みます。スナフキンははらを立てていましたが、‘ティーティー=ウー’と名前を提案します。「ティーティー=ウー、はじめはあかるくて、おわりはすこしかなしそうにおわるんだ。」‘はい虫’はそれを聞いて、考えると、その名を叫んで急にいなくなってしまいます。スナフキンもさすがに驚いたのか「もどっておいでよ。」と叫びますが、林の中はひっそりとしたまま。

 次の日ティーティー=ウーを探し再会したときには、彼は自分の家の建築に一生懸命でした。スナフキンに家の表札を紹介しつつ言います。「(名前がなかったころは)すべては、ぼくのまわりでただおこっているだけで、そんなものは、みんなくだらないことだったんですーそりゃたのしいことも、そうじゃないこともあったけどさ。」「ところがいまは、ぼく、一個の人格なんです。だから、できごとはすべて、なにかの意味をもつんです。だってそれはただおこるんじゃなくて、ぼく、ティーティー=ウーにおこるんですからね。そして、ティーティ=ウーであるぼくが、それについて考えるわけですからね。」 これを聞いてスナフキンもうれしそうです。

 

 これは「真の名」という古くからあるテーマですね。児童文学では『ゲド戦記』が代表作ですし、ゲドから影響された『風の谷のナウシカ(漫画版)』でも巨神兵が名前をもらったとたん知能が上がり自らの使命を語るという現象が起きます。心理学的にも自分の無意識やコンプレックスを知り、おくびょうさや不安が解消して新たなアイデンティティを獲得して成長するということがあります。心理療法の場でもときどきこのような爽快な事例があります。

 

 スナフキンは、そんなティーティー=ウーに、前夜に頼まれた歌やお話をしようとしますが、今のティーティー=ウーは「いまはぼく、とってもいそがしいもんでーどうぞおかまいなく。」と断ってしまいます。そう、どんなにあこがれた人であっても、その人のお話より自分自身の人生を生きるほうがよっぽど面白いのです。スナフキンの英雄物語より、地味で日常的なことであっても自分に起こることのほうがずっと魅力的なのです。ティーティー=ウーは続けて言います「ぼくは、ありったけ、いきるのをいそがなくちゃならないんです。もうずいぶん時間をむだにしちまったもんでね。」

 そして一人歩きだしたスナフキンに、歌が戻ってきます。そのテーマは「たったひとりでいることの、大きな大きなよろこびでした。」

  

 このエピソードも、なんとも言えないさびしさをともなったさわやかさがあります。ティーティー=ウーとスナフキンは仲良くなったのでしょうか?むしろ、スナフキンに片思いしていたティーティー=ウーが最後はスナフキンをふっているように思えます。そしてお互いがひとりぼっちになっています。でも、お互いが心地よさを感じている。自分らしく生きることを見つけ出した結果、他人と過剰にくっつく必要がなくなっているのです。ティーティー=ウーは名前をもらったことをきっかけに、他者を崇拝したり過剰なあこがれや愛をむけることをやめ、自分の人生を歩きだしたのです。名づけ親のスナフキンのおかげのはずですが、恩人でも何でもない架空のあこがれだったときにはあれだけ過剰な崇拝を示したのに、本当に恩人になってくれたスナフキンにはさほどつながりを求めずドライになっています。自分の人生に忙しいことに加え、自分らしさを得た以上お互いの適度な距離というものがあって、それを越えてべたべたする必要なないのでしょう。

 

 さて、スナフキンのほうも、自由と孤独へのコンプレックスを乗り越えたように思えます。そして心の底から本当に自由と孤独を愛するようになったのではないでしょうか。それまでの彼は自由と孤独を大切にするあまり、その価値観から自由になっていなかったように思います。自縄自縛という言葉があります。自分の縄で自分をしばっていることですね。他人からしばられることを嫌悪するスナフキンですが、むしろ自分の信念で自分をしばって自由を失っていたのではないでしょうか。ムーミンやティーティー=ウーとのかかわりを自由と孤独を失うからと避けるのは、どうもやりすぎでしょう。他者からの愛情を素直に受け取れず、感情がゆさぶられてしまっています。

 

 しかし、今回、スナフキンは自分からティーティー=ウーを探します。そして、逆にふられてしまいます。でもそれはスナフキンにとってもうれしいこと。ティーティー=ウーを見てスナフキンは静かでしかし力強い喜びを感じたように思います。それは彼にとっても、自分は自由と孤独を愛していると改めて感じさせたのでしょう。 本当に自由と孤独を愛している人は、他人とかかわることにも喜びを見出せます。他人とかかわっていても、自分が自由と孤独を愛していることを知っていてそれが失われることはないという自信があるから。スナフキンは今ここ、この瞬間に自由で孤独であることに大きなよろこびを感じ、その価値観からも自由になり、もっと落ち着いてゆったりとしていられるようになったのではないかと想像します。

 

 このお話、最初は、スナフキンが癒す方、ティーティー=ウーが癒され成長する方、となっています。でも、ラストは、癒され成長した人を見て、癒し手も癒され成長しています。これは心理療法でもよくあることで、最初はクライエントさんがカウンセラーを頼り慕ってくることが多いのですが、心理療法のラストになると、カウンセラーをあっさりとふって終結し自立していきます。そうするとカウンセラーのほうがさびしく感じたり、引き留めたくなったりすることもあります。しかし、クライエントさんの癒しや成長を見てカウンセラーも癒され成長し、最後はふられることによってその癒しと成長は完成します。その別れのさびしさを越えて、双方が自分らしくいられるのがよい心理療法というものでしょう。

 

 

 ところで、このお話にスナフキンが‘はい虫’に言うセリフがあります。

 

「あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。」

 

 名言きました!私はこれムーミン史上ナンバーワンの名言だと思っています。政治思想も宗教も学問も、趣味や仕事も、恋愛や友情も、過剰な崇拝や思い入れは自由を奪ってしまいます。過剰な愛はなんらかのコンプレックスの反映ですね。ほどほどではない感情(特に怒り)を持ってしまったときは、用心しましょう。 あ!この言葉を過剰に崇拝しないようにしなければ…。

 

<おまけ ムーミンワールドの写真です②>

実写版スナフキンです。やっぱりイケメンですね。

本国でも子どもたちに人気のようでかこまれていました。『ムーミン谷の夏まつり』で公園の子どもたちを助けたシーンもこんな感じ?