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学校になじめない人はハンターなのかもしれない

 二学期が始まりましたね。死ぬほどつらいなら行かなくてもいいけど、誰かとお話しすることは続けていてね、と前のブログでは書きました。

 でも、そこまでつらいわけじゃない、いじめとかあるわけじゃない、でも、なんとなく学校になじめないしつまらない、という人もいると思います。今回はそんな方に向けて、私が学校について考えていることを書こうと思います。

 

 これから書くことはひとつのアイデアでぜったいに正しくて全員にあてはまるというわけではないと思います。少しでも「なるほどなあ。」とか「ああ、自分はそうだ。」と思ってくれれば書いたかいがあります。

 

 さて、学校というのは昔の農村社会のような作りになっているように感じます。みんなでお米を作る村ですね。昭和のなかごろ、つまり今から50年前くらいまでは、日本の多くがそういう社会でした。そこでは村人全員の協力が必要です。田んぼの整備も、苗を植えるのも、お米をたくわえる倉庫を作るのも、リーダーの元でみんなでいっせいに仕事をします。仕事だけでなく、お祭りのような楽しいこともみんないっしょに楽しみます。多くは秋祭りですね。お米や野菜が取れたことの喜びや神様への感謝を楽しむ収穫祭です。お正月や七夕のような年中行事もそうでした。

 だから、はみ出した行動をとる人は好かれません。お米を育てるには大変な苦労もありますが、うまく整えてあげれば稲は自分で育っていってくれるので、順調なときは、人びとは近所の人との人間関係をうまくやることに注意をはらいます。嫌われたりしないよう、けんかがなるべくおきないよう、とても気を使うのです。これは私が感じただけでなく、司馬遼太郎という歴史小説家が書いています。

 

 これって学校に似ていませんか?みんなでいっせいに勉強をして、体育祭(運動会)、文化祭(学園祭)、合唱祭(コンクール)もやる時期が決まっている。だいたい文化祭は秋やりますよね。あれは秋祭り、つまり収穫祭の影響でしょう。そして昔は村から簡単に引っ越しできなかったように、クラスや学校を気楽に出たり入ったり変えたりできない。一度入ったら、その村の住民として定着することが望ましいとされます。だから、そこで嫌われないようとても気を使いますね。

 仕事や勉強をいっしょにやるだけでなくお祭りや年中行事などの楽しいこともいっしょにやるので、感情、気持ちもみんなと同じようになることを求められます。学校やクラスは、農村のムラ社会と同じ発想で作られているのではないでしょうか。というか、これは日本人の根本的な特性ですが、農村ムラ社会以外の社会をわれわれは作れないのかもしれません。人が集まって組織になろうとすると、ほぼ農村ムラ社会に似たものを作ってしまうのが日本人のさがなのかも。

 

 学校になじめないという人は、このみんないっしょ、そしてきらわれないように気を使うというのが苦手だったり違和感があるのではないでしょうか。

 

 私はそういう人は「狩人」あるいは「猟師」(まとめてハンターとしましょう)タイプといってよいのでは?と感じ始めました。

 狩人や猟師は農村のはずれの山に近いところに住んでいます。農村に完全に入ってはいないのですね。そしてルールやおきても独自のものを持っています。また、その仕事は個人プレーで能力によってはまったく獲物が取れないかもしれません。つねに獲物を探していて、鉄砲や弓矢、わなといった個人の技にみがきをかけています。そして動物の習性や山や川、天気の特徴を知ろうとします。農村に比べて、変化が大きいし、自然もきびしいから細かいことにも注意します。

 だから、ハンターはお米を作っている農村ムラ社会の人とは違った人間のあり方になるでしょう。共同作業よりは個人の能力が大事、収穫を待つのではなく自ら探しに行く、村のおきてや人間関係より自然や動物の習性を重視する、自然の変化に敏感、などなどです。

 

 こういうハンタータイプの人は農村ムラ社会にはなじめなくて、息苦しく感じるようです。農村のほうが安定して食べ物は手に入るし、みんなで仲良くできて孤独も感じなくてすむのですが、ハンタータイプはそれよりも一人で山で獲物を求めていたい。

 

 私は、クラスになじめない児童・生徒を見ていると、もしかしたらこの子たちはハンタータイプなのではないかと感じています。みんなで同じことをすることや、人間関係を大切にして嫌われないよう気を使うのがとても息苦しくて自分らしくないように感じる。そういう子を無理やりクラスに入れるのは、村はずれに住んでいるがんこ者のハンターを無理やり農村の仕事やお祭りに参加させて村のルールを守らせようとしているのではないでしょうか。

 でも、ハンターにはハンターのやり方があります。ハンターに必要な勉強や技の習得がありますし、いきいきとできる仕事があります。

 

 不登校の原因のひとつに、このタイプの違いがあると想定してみてもいいのかもしれません。不登校の子がゲーム好きなことが多いですが、それもハンターだからなのかも。スプラトゥーンも荒野行動もバイオハザードもドラクエも、ハンティング的な要素が強いですよね。またいわゆるオタクの人も、情報やグッズを集めることが好きですが、これもハンティングでしょう。まだ見ぬアイテムや重要なグッズ、知らない情報を求めてネット世界や秋葉原を探索するのです。

 

 

 

 不登校は悪くない、ということをネットやマスコミで言われるようになりました。でも、まだ不登校の中には学校に行けないことに罪悪感や自分はだめだ、情けないと感じている人もいます。

 

 でも私は思うのです。きみたちはハンターだ!と。だから、ハンターとしての誇りをもっていいのだと思います。確かに農村のルールや人間関係を身に着けることは苦手かもしれませんが、ハンターにしかできない仕事はたくさんあります。みんながお米を作るために共同作業しているときに、きみは山へ入って獲物をとっています。一見勝手な行動に見えます。でも、農村の人にその肉や毛皮をわけてあげることができるのです。

 

 だから、ハンタータイプにはハンターとしての教育が必要なのかもしれません。ハンターにも勉強は必要だし、ハンター同士のルールも人間関係も必要です。タイプの違う農村ムラ社会の人とも交わる方法も必要です。ハンタータイプだからといって、仕事や勉強をしなくていいのではありません。ハンターの勉強、仕事をしなければなりません。だから、不登校になってみんなと同じ勉強をしなくてもいいのでハンターとしての勉強や活動をしてみましょう。現代ではそれは情報をハンティングすることかもしれません。ものを収集することなのかもしれません。何かを作り上げることかもしれません。そこからいろいろな発想をしたり、みんなの役に立てることがあるかもしれません。

 

 また、自分と違う農村ムラ社会をバカにしたりきらったりするのもまちがっています。農村ムラ社会は日本人が長い歴史と伝統で作り上げた、社会にやさしさとおだやかさを実現するとてもすぐれたしくみです。

 

 自分が狩りで得るものと、地道に共同作業して実りを得たお米や野菜は、対等な価値があります。違うタイプの社会と生き方を互いに尊重して、お互いの苦手な部分を補いあうことはできるはずです。

 簡単に言うと、自分と違う生き方の人をバカにしたりきらったりしないで、お互いフォローしあうのが合理的ってことです。

 

 さらに、これは若い人やわれわれ一般人にはどうしようもできないことですが、文部科学省や都道府県の教育委員会にお願いです。ハンタータイプのための学校を作ってもらえないでしょうか?上に書いたように、学校のほとんどは農村ムラ社会をモデルに作られています。でも、大人になって一般社会に行くと、そういう社会ばかりではありません。ハンターとして生きている人はたくさんいます。単位制高校や大学はハンターに近いでしょう。選んだ単位を獲物として獲得していく。ですから、単位制小学校とか中学校は無理でしょうか?自分のねらった科目を獲得していく方法でもよいのでは?また、クラスもなくて自由に出たい授業に参加するのは無理でしょうか?行事も選択制でよいのでは?

 それでは人間関係やチームプレーが学べないというのは、農村ムラ社会の方法が学べないだけです。しっかりとしたハンターとして育てる学校を作れば、社会のルールも自分のやりたいことも両立するハンターを育てることはできると思います。

 

 これからの時代、ハンタータイプがどのように生きていくのか、活躍していくのか、楽しみに見ていきたいと思っています。