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感覚・直感のセラピー;治そうとすると治らない矛盾をどうするか

 カウンセリング・心理療法に来るクライエントさんは、悩みや症状を治したい、変えたいという目的でいらっしゃいます。あるいは自分を見つめたい、成長したい、という自己実現や人格の成熟という目的の場合もあります。

 私は自分自身のテーマを認め何とかしようと来談するクライエントさんを本当に尊敬しています。‘クライエントになれる強さ’というのもありますね。来談にいたるだけですごいことだと思います。

 

 ところが、変えたい、治したいと思えば思うほど変化しない、治らないという矛盾に陥ります。

 なぜなら、治したいと強く思うことはその悩みや症状を強く意識することになってしまうからです。“この悩み”を治したい!と思うわけなので、どうしても悩みについて考え続けてしまいます。

 例えば、自分のだらしない性格を直したい、と思ったとします。すると、少しの遅刻も「あ、まただらしない。」疲れて仕事や勉強を少しなげやりになると「ああ、まただらしない!」・・・だらしないという欠点を直そうとするとこれまで以上にだらしなさをモニターしてチェックして、そうすればするほどだらしない要素が増えて悪化していきます。

 だらしないことについて心理分析して、「そうか、自分は親の育て方のせいでだらしなくなったんだ。」と理解したとします。すると、少し部屋を汚くすると「ああ、また親の言葉が影響してこんな風になってしまった!そういえば昨日もおとといも、半年前も去年も一昨年もこういうことがあった!」 別の解釈もあります。心理分析して、「自分のだらしなさは完璧主義すぎて自分を厳しく見ているからそう思い込んでいるんだ。完璧主義を直そう。」と理解したとします。すると、常に自分のだらしなさを責めた事例をモニターして「あ、靴をそろえなかった、だらしない。・・・ああ!また完璧主義に見てしまった!今日は他にも完璧主義に見たことはなかっただろうか?…ああ、あれも!これも!完璧主義だった!」「今日は約束を破った友人に腹を立ててしまった。これも完璧主義だからだ!」・・・

 

 これはほとんどのどすべての流派、技法でもカウンセリング技法や思想が進化ないし深化するとぶつかるテーマのようです。(治すことだけがすべての価値である行動療法は違うと言いたいのですが、あとで説明する「弁証法的行動療法」があるので、行動療法も除外できません。)

 

 中でも特に森田療法はこの現象を問題視しています。「精神交互作用」と言いますが、弱点を取り除こうとすればするほど、そこに意識が集中して弱点を引き出してしまうとしています。また、不安なものから逃げようとしたり対策を立てようとするとかえってそれにひきつけらてしまうことを「とらわれ」と言います。症状や間違った考えにとらわれているのは確かに問題ですが、それを解決しようとする考えや行動にもとらわれると、それもまた症状、悩みとなってしまうのです。

 アクセプランス&コミットメントセラピー(ACT)という第三世代認知行動療法では、考え方を変えようとする介入がかえってその考えを強化することがあるとしています。ACTでわかりやすい例が挙げられていますが「『私は愛されない』と考えてはいけない。」というルールを作ると、「私は愛されない」という部分を含んでいるので、その思考をモニターしなければならずその思考がますます増大してしまう、と述べています。そのテーマについて考えることにとらわれ一日中そのテーマについて考えていたり、その思考が直らない限り人と付き合えないと思ってしまうと、かえって行動を制限して不自然、不自由な生活となってしまうのです。

 パーソナリティ障害に効果があるという弁証法的行動療法(DBT)では変容を強調することがクライエントさんを否定することに結びついてしまうとしています。変化しろ、というのは、今の状態を一部とはいえ否定することになりますからね。「あなたであってはいけない」というメッセージになってしまいます。そうするとクライエントさんは変われない自分を自己否定してしまいます。

 ACTとDBT両方で利用されてるのはマインドフルネスですが、マインドフルネスでは心の問題を取り除くことはしません。意図的に実行する「することモード」を感情に向けてしまうと、対象について繰り返し考え逆に苦悩や困難をかえって大きくしてしまうとしています。水に浮かぶ葉っぱの動きを止めようとして触ると、かえって動いてしまい止まらなくなるようなものです。

 

 では、治そう変えようとしない、成長しないでいい、としてカウンセリングに来なければよいのかというと、もちろんそれだと今の問題は残ったままになる。意図的にならないよう意図するとか、努力しないよう努力するというのはそもそも矛盾してますよね。この矛盾をどう乗りこえればいいのか・・・

 

 このような努力すればするほど問題にとらわれ目的から遠ざかるというのは、武道・武術でも大きなテーマです。美空ひばりの「柔」という歌でも「勝つと思うな思えば負けよ」とありますが、その通りなんです。(スポーツ化した今の柔道は別のようですが。)

 例えば、相手を倒そうと意識すればするほど力んで固くなってしまい、うまく動けなくなります。相手も、倒される力みを感じると抵抗したくなります。結果ますます倒しにくくなっていきます。またうまく動こうと意識して自分の動きや体勢をモニターしているとスムーズに動けなくなりますし気もひっこんでしまいます。考え考え動くのは当然おかしなものになります。

 かといって、相手を倒そうという気持ちをなくして身体も動きも精神もだら~んとしていたり、下手なままでいいのだ、と下手に動いていては武道・武術になりません。上達も成長もありません。

 武術研究家の甲野善紀先生は、武術は「矛盾を矛盾のまま矛盾なく」と表現しています。・・・う~ん、理屈では理解しにくいですね・・・。

 

 武術家も心理療法家も、この矛盾を乗りこえようといろいろ考え実践しています。先に挙げた森田療法、ACT、BDTでは技法に類似点があり、いずれも「あるがまま」「受容」という似たような態度を重視しています。また思考より行動を重要視する点も類似しています。これらはいずれも禅を始め東洋の思想に影響を受けています。

 また、ユングは心の「超越機能」を主張しています。矛盾を超越し統合し乗りこえる力が人間の心の機能としてあるのだ、ということです。無意識と意識が対立し心が動けない状態のときに悩みや症状が出てきますが、ユングのセラピーの目的としては、一方を勝たせて一方を消し去るのではなく、その両方がともに変化し歩み寄り、統合されさらなる人格の成熟に向かうということになります。

 

 この「超越機能」は直感によってもたらされるのですが、直観はなかなか意図的に発揮させることはできません。ユングは実践として夢分析、絵、空想による対話、ダンスや運動、などを挙げています。弟子のカルフが発案した箱庭もそうでしょう。しかしただこれらをやっているだけだと、何をしているのかわからずただただセラピーが長引くことにもなります。ゆえに思考や感情や感覚を飛びこえる直感が必要になります。

 

 さて、この直感をどのように発動させるか?書いてきたように意図的になるとかえって直感は機能しなくなるので、意図的に直観を発動させる方法がないのです。

 

 直感を働かせるためのヒントを私にくれたのが、「新瞑想箱庭療法」を開発した大住誠先生(同朋大学大学院特任教授)でした。「新瞑想箱庭療法」は、瞑想して自我機能を低下させてから箱庭療法を行います。その方法では感覚を重視します。セラピーの際の感覚もそうですし、クライエントさんの日常においても感覚に意識を向けるよううながします。

 どうして感覚を大切にすると直感が働くようになるのか?大住先生はユングと湯浅泰雄先生の『身体論』を援用して説明してくれたのですが、感覚は思考・感情と違い、価値判断をしない機能であり二つに分ける機能ではないことが重要であるとのことです。思考と感情は正反対のようにみえて、「正しい」「間違い」、「好き」「嫌い」などと二つに分けて価値判断するという点では似ています。一方、感覚と直感は伴われることが多い。なぜなら、両方とも理由や理屈や好き嫌いなど関係なく、ただそう感じ取られたという点で似ているからです。心理療法では感情を重視する傾向がありますが、感情は個人的なものなので個人を強調しかえって今の状態を強化するケースがあります。(ただし、感情も個人を超越した感情があります。そのような感情にたどり着くと直感に結びついていくことがありますね。)したがって、大住先生のセラピーは感情を扱わず、感覚に意識を向ける瞑想や日記を使用しています。

 

 私はこれを聞いたとき、武道・武術の達人が直観力に優れている理由も理解できたし、禅や瞑想法で呼吸や音に意識を向けることの意義がわかりました。武道・武術は力や気の流れ、相手との距離や気配、自分の身体の軸や丹田といった感覚を研ぎ澄ましていきます。その稽古を繰り返すうち価値判断や二分類する機能が低下し、あるがまま感じ取る能力が発達し、結果として直感がやってくるようになるのでしょう。理屈では決着のつかない「倒そうとしないで倒す」という矛盾を矛盾のまま矛盾なくできるようになります。また二分法を超えた世界に近づくので、共時性や自他との、あるいは自然との一体感という現象も生じやすくなります。

 

 私が合気道と心理療法の類似を感じる要素の一つがここにもあります。ユングや新瞑想箱庭療法、新しい認知行動療法、マインドフルネス、これらはいずれも思考や感情へのとらわれから感覚への意識の集中、そして合理的な精神を超えた直感の発現というセラピーを行っており、武道・武術と非常に似ていると思われます。合気道の稽古で感覚に意識を集中することが、矛盾して解決の見つからない心理的な問題に「超越機能」を働かせることにならないか?

 

 

 私は自分のオリジナルとして合気道セラピーを開業してから行っていますが、ストレスや悩みが身体に表れている問題には効果が出てきています。身体の症状を直接変えるのではなく、合気道の動きや身体操作、気の流れるイメージに意識を集中することで、動きや身体が箱庭となり、感覚が発展し、最後に直観的に生きるエネルギーのようなものを感じ取れるようになるのではないかと思います。それが「超越機能」となり、理屈では超えられない悩みや身体症状を好転させているのではないかと考えています。

 

 現在の心理療法のトレンドとして、思考や感情ではなく、感覚・直感を使ったセラピーが発展してきているように感じます。その背景に東洋の思想や瞑想法があるというのは、日本武道をやるものとしても、とても興味深いですね。

 

 自分の経験だけでは心もとないし、独善的におちいってしまいます。理論的根拠として先達の心理療法や武道・武術研究との類似点を見つけていくのは心強いものです。これからも合気道セラピーの理論を検討していきますので、ご興味のある方はぜひ引き続きブログをお読みください。またはご連絡ください。