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ムーミン谷のカウンセリング③ー触れたものすべてを凍らせる呪いー

 大ヒットしたディズニー映画、『アナと雪の女王』の続編映画が公開されましたね。ヒロインの一人、エルザは生まれつき触れたものを凍らせる魔法の持ち主でしたが、ムーミンにも同様の能力(呪い)を持って苦しんでいるキャラクターがいます。今回はそのモランというキャラクターのお話しです。ちなみに、モランは女性です。

 

 モランは『楽しいムーミン一家』『ムーミン谷の冬』『ムーミンパパ海へ行く』の3作品に登場するので、まあ準レギュラーキャラといってもよいでしょう。

 モランは触れたものすべてを凍らせてしまいます。歩いたあとは花は枯れてしまいますし葉もコケも凍りついてしまいます。しかも1時間以上座ったところは、地面がおそろしさのあまり死んでしまい、永久に何も生えなくなるといいます。そのため、モランが来ると砂やコケや森はおろか、島も海すらもおそれてふるえるのです。海を凍らせたり波をおそれさせて避けさせることで海を歩くこともできます。湖を凍らせて渡り、一国を凍らせたエルサに勝るとも劣らぬ力ですね。自然すら殺し変えてしまえるのです。

 悲劇的なのは、モランは光や暖かさを望んでいるようなのです。だからたき火やランプがあると寄ってくることがありますが、火に近づくと火は消えてしまいます。ムーミン谷の人々(人じゃないけど)はそれを意地悪しに来た思っています。でも、火を消してしまうのは触れたものを凍らせるという力のせいで、決して意地悪で消しているのではないのです。しかしモランは言葉でそれを説明することもしません。あるいはできないのか?歌を歌っているので言葉はしゃべれるようですが、どうも物語を読むとコミュニケーションに絶望している感じです。

 そんなモランは「どうやってみてもあたたまることがなくて、だれにもすかれず、どこへいってもあらゆるものをだめにしてしまう。」と描写されます。これは・・・コミュニケーションに問題がある人や発達の偏り、マイノリティの人々が抱える孤独と苦悩の象徴として胸に来ます。社会になじめない人、グループにいると浮いてしまう人、愛する人に受け入れられなかった人、親に大切にされなかった人、やむなく罪を犯してしまった人・・・。

 アナ雪の冒頭から中盤のエルサがそうであったように、モランも孤独に生きるしかありません。触れると相手を凍らせてしまい、暖まろうとすると火のほうが消えてしまい、それを意地悪していると思われるのですからね。

 

 ムーミン谷はある種の理想郷で、多様性を最大限認める世界です。しかしモランだけはさすがにムーミン一家も受け入れることはできない。モランがくると悲鳴をあげ大騒ぎしたり珍しく武装して警戒します。

 受容的で相手に自由にさせるというのが多様性を認めるということだと思うのですが、ムーミン谷で代表的な2人がいます。その2人がモランについて説明しています。

 1人はトゥーティッキです。『ムーミン谷の冬』で、内気で人とうまく付き合えない生き物たちが冬至のお祭りで大かがり火、つまりキャンプファイヤーをして歌ったりおどったりしています。そこにモランが現れます。内気で夏に生きる場所をもたない生き物たちも歌をやめて帰ってしまいます。モランはマイノリティー・オブ・マイノリティー(少数者のなかのさらに少数者)なんです。モランが近づくとかがり火はじゅーっと消えてしまいます。お祭りは台無し。さらにムーミンの持ってきたランプにも近づくけど、それも消してしまいます。トゥーティッキは「あの人は火をけしにきたんじゃないの。かわいそうに、あたたまりにきたのよ。でも、あたたかいものは、なんでも、あの女の人がすわると、きえてしまうの。いまは、また、しょげかえっているわ。」と言います。かなりモランに同情的です。しかしそれ以上のことはしないんですね。

 ムーミンママは『ムーミンパパ海へ行く』でモランが家に近づいてきたとき、やはりこわがって大騒ぎします。でもモランが去ってからは、こわいことはこわいけど、危険ではない、と主張します。「わたしたちが、モランをきらうのは、あの人があんまり冷たいからなのよ。それにあの人は、だれのこともすきじゃないんです。だけど、どんな害もしたことはありませんわ。」と言い、敵視や排除の気持ちはそれほどない。しかし受け入れることはできないんですね。ムーミントロールが「ママ、あいつはどうしてあんないじわるになったの。・・・だれかがなにかしたために、それであんなにわるくなったのかしら。」と問うたときに「むしろ、だれもなにもしなかったからでしょうね。だれもあの人のことは気にかけないという意味よ。」そしてモランに興味をもつムーミンに「モランと話をしてはいけないし、あの人のことを話してもいけないのよ。・・・あの人をきのどくがることはないんだよ。」と言います。なんだか自分の子に近所の不幸な家庭の非行少年について話している感じがしますね。同情はするけどかかわり合いはもたないよ、という感じ。

 このように、ムーミン谷で一番多様性を認める2人からしてモランを避けてしまう。前に書いたニンニに対しての2人とえらい違いですね。ニンニもモランも人から関心をもたれないという状況で、ニンニは姿が見えなくなる、モランは触れたものを凍らせるという呪いにかかる。いじめで不登校となる子と非行に走る子の違いみたいなものでしょうか?他害的となってしまったモランには、やさしい人でもせいぜい同情するくらいで、かかわってはくれないのです。

 

 『ムーミンパパ海へ行く』でこの呪いからの解放が描かれます。キーとなるのは主人公ムーミントロールです。ママに質問したように、ムーミンはモランをおそれきらいつつ、関心を持ちます。ムーミンは自分がモランだったら、と空想してみます。背中を丸めて歩き、自分の周囲が凍りつく様を感じます。そうすると世界中でひとりぼっちという気持ちがしてきます。そして、ママからモランについて話してはいけないと言われると、モランはだんだん消えていくし生きていようと考えることもできないと感じるのだろうと想像し、この問題を解決するには鏡を置けばいい、と考えたりします。ここで初めてモランのことを問題と認識し、解決しようとする人物が現れるわけです。そんなムーミンをモランは追いかけてきます。ムーミンがモランのことを考えてくれるからではなく、ムーミンの持っているカンテラ(ランプ)を追ってきているだけですが。これはある種の共時性です。ムーミンのこころの中をモランは知っているわけではないのです。モランはカンテラが欲しいだけ。でも偶然、そのカンテラは世界で唯一モランのことを空想している人が持っているのです。

 モランがムーミンのカンテラの動きを目で追っていることに気づいたムーミンは、最初はどんな交渉も持ちたくない、遠くへ逃げたいと感じています。しかし海岸で明かりを待っているモランのため、自分にいろいろと言いわけしながら浜に向かいます。毎晩浜でムーミンはカンテラをふる。モランはそれを見て、明かりが消えると去っていきます。そういう微妙な距離の関係が続きます。しかしモランはじょじょに近づいてきて、島に上陸してしまいます。するとモランの足元の砂は逃げ出し、森も木も、島自体もおそれおののきます。ムーミンはモランにつけまわされ、自分だってあたためてあげることはできないのに!と怒ります。それでもカンテラを見つめさせるために浜に行き、モランがカンテラを見ながら歌い、スカートをぱたぱたとして踊るのを見るうち、ムーミンにもこの儀式が大事なものと思えてきます。

 しかし、最後には灯油がきれてカンテラがつかなくなってしまいます。ムーミンはもう何もしてやれることはないと思いながらも海岸へ向かいます。モランは待っていました。モランは喜びの歌を歌い、体を動かし足ぶみして、ムーミンがきてくれた喜びを精一杯表そうとします。カンテラがないことなんて気にもしていません。ムーミンが会いにきてくれたこと自体を喜んでいるのです。モランが去ったあと、砂は凍っていませんでした。島も落ち着いています。モランはすべてを凍らせる呪いから解放されたのです。

 

 どうしてモランは呪いから解放されたのか?アナ雪と同様、真実の愛の力でしょう。ムーミンに思いやってもらえたこと、明かりではなく人を求めること、人と会うことを喜ぶことが、呪いを解いたのだろうと思います。

 

 臨床心理学的にみると、この癒しが起こったのは、三つの要素があると思います。

一つは適切な距離です。以前のモランは、かがり火やランプに近づいて消してしまったり、花壇に侵入して花を枯らしてしまったりでした。暖かさや明かりを求めるがゆえに近づきすぎてしまい、破壊してしまう。カンテラを目で追うくらいの距離でとどまるのは、もどかしかったかもしれません。しかしそれで自らの呪いで明かりを消しムーミンを傷つけることなしに関係を保つことができたのでしょう。これは前にブログで書いた、治そうとすると治らない矛盾と似ています。暖まろうとするとかえって暖まることができない。愛そうとするとかえって愛せないし愛されない。強烈な感情のまま動くとその感情はかえって満たされないのです。

 もう一つはムーミンの想像力、空想力です。やさしさだけではモランを癒せないのは、トゥーティッキとムーミンママがそうですね。2人と違うのは、ムーミンは自分がモランだったら、という空想をしていたことです。トゥーティッキとママは、モランのつらさについてすでに‘知っていた’のです。ムーミンは知らなかった。だから空想したのです。それは、モランのつらさ悲しさについて‘生々しく知る’ことになりました。ムーミンは迷惑がりおそれながらも、モランを‘実感として知った’ものとして、どうしても無視できなかった。だから近づきすぎないけど持続的に関係をもち続けることができたのでしょう。

 三つ目は、灯油がなくなってカンテラがつかなかったという事件が最後の解決をもたらしたことです。普通に考えれば、明かりがつかなくなるのはモランとムーミンにとって残念なことです。しかし、それがなければ、モランもムーミンも、明かりが重要なのではなく、会うということが重要だったのだと気づくことはなかったでしょう。モランは、カンテラを持たないムーミンを見たとき、喜びでこころが動いたのでしょう。それまでムーミンが自分のために明かりをもってきてくれたこと、ムーミンの見ている前で歌ったり踊ったりして楽しかったこと、カンテラがつかなくてムーミンは自分のために申し訳なく思ってくれていること、カンテラが無くてもムーミンを見ただけで嬉しく思ったこと・・・自分は人に関心をもってもらっていた!思いやりをもってもらっていた!自分も相手を愛することができていた!

 明かりが欲しかったのではなく、人に会いに来てもらうこと、人から関心をもってもらうことを求めていた、そしてそれが実現していたことに気づいたのでしょう。人に愛され、人を愛することができたのだと気づいたとき、モランは癒されました。

 

 

 映画と違って劇的な演出はありませんが、モランの癒しは静かで深い感動を与えてくれます。

 

 カウンセラーとクライエントの関係も似ているのかもしれません。強烈な愛は転移・逆転移といって、人を癒す愛ではなく滅ぼす愛になりかねません。もどかしくても適度な距離の愛こそが治療的なのですね。 そして我々カウンセラーの共感は想像、空想力によってなされます。クライエント個人の苦しみを知っているのではなく、知ろうと努力しています。そして、カウンセリングの進行が劇的なものではありません。回復しているのかどうかわからないことも多いです。それでもよくなっていったとき、それがわかるのは偶然の出来事によってです。癒しや回復の最後の一押しは偶然の出来事、しかも一見ネガティブな出来事によってなされるのです。