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心理療法と合気道:橋をかけること

 合気道セラピーシリーズの4弾目です。今回は私が考えている心理療法と合気道の共通点から「橋をかける」機能についてです。

 

 まず、心理療法から。すべての心理療法に共通なのは、「橋をかける」「橋をわたす」と表現されるものなんだと思うのです。心理療法にはいろんな会派や技法があって、その手段や方法や心理・人間観が正反対のものもありますが、それでもすべてに共通している機能は「橋をかける機能」ということじゃないでしょうか。

 

 深層心理学は無意識と意識のつながりや統合、つまり「橋をかける」ことで症状や悩みが解決すると考えています。ユングはずばり「精神と自然ないしは肉体との分離に橋がかけられた」「意識と無意識の橋わたし」と言っています。フロイトとユングは無意識についての考え方が違いますが、抑圧されたり忘れられたり省みられなくて、意識と分断している無意識と意識をつなぐというのが治療論、人間観としては共通です。

 認知行動療法は、不合理な認知と合理的な認知を「橋わたし」するのでしょう。不合理な考え方が独立して動いているので、感情や気分にも影響する。だから合理的な考えとつないでいくわけです。マインドフルネスはやはり感覚と意識をつなぐ。ロジャーズも、自己の不一致という表現で経験と自己概念のずれを重視し、そこに「橋をかける」わけです。行動療法だって、不適切な行動と望ましい行動に「橋をかける」のでしょう。森田療法も、こうあるべきという理想と現実的で自然な身心との乖離を思考の矛盾、精神交互作用と言って問題視し、意識と不安の奥にある生の欲望とを「橋わたし」します。

 

 各〇〇療法の違いと共通点ではなくて、症状またこころの問題の治療においても、結局「橋をかける」ということが重要だと思います。トラウマの治療においては、凍りついた過去と今ここの分断に「橋をかける」わけですし、心身症(身体症状症)はこころと身体との間に「橋をかける」、不安症や恐怖症はリラックス状態と緊張状態に「橋をかける」のです。自分らしくいられない悩みというのも多いですが、本来の自分と社会的な自分や理想の自分との間に分断があるからつらい。そこに「橋をかけていく」と理想だけでも社会に合わせただけでもない、中間的な新しい自分ができてくる。

 

 「橋をかける」「橋をわたす」というのは「統合する」「交流する」「影響する」「相互作用する」などということですね。でも、「橋」という表現をしたほうが人間の日常で見聞きすることに近いイメージを持てるでしょう。

 

 心理療法家、カウンセラーの役割も「橋をかける」機能を果たす、もしくはクライエントさんが「橋をかける」のを助けるということになります。セラピーで過去を語ってもらうときには、過去と今ここの間に「橋ををかけている」のです。呼吸に意識を向けてもらうときは呼吸、つまり身体感覚と意識を「橋わたし」している、イメージを語ってもらうときは無意識と意識を「橋わたし」している。私はそういうイメージをもって聴いています。

 

 各理論や心理療法の違いは、何と何を「橋わたし」するかの違いだけなのかもしれません。

 

 

 ユングは深い無意識は身体であると考えていたようです。そして魂は精神と身体をつなぐ「橋」であり、意識と無意識の交流、つまり「橋わたし」が達成され、ゆがみが訂正され人格全体が円あるいは球状に広がることが「個性化」とか「自己実現」という癒しや成長の形であると考えていたのではないでしょうか。

 その「橋」を「サトルボディ」とか「アニマ」「中間領域」「第三のもの」「メルクリウス」「聖なる結婚」「ウロボロス」「クンダリニヨーガ」などと対比し、統合され結びついたある種の理想状態として「賢者の石」「アートマン(真人)」「マンダラ」「黄金の華」「セルフ」などと呼んでいます。心理学用語だけでなく、錬金術をはじめとする西洋、東洋双方の神話や宗教からその状態を表すものを懸命に探し出していたのですね。

 「橋」はどちらの岸に属しているかわからない、まさに中間にあるものです。身体と精神だと、そのふたつをつなぎどちらでもないものを魂と呼ぶしかない。だから魂はこころでもあり身体でもあります。

 

 

 この「橋わたし」の重要性について心理療法家ではなく気づいていた人が、合気道開祖、植芝盛平翁です。以前ブログ「サトル・ボディと心理療法・合気道」でも書きましたが植芝翁は「合気道は天の浮橋に立たねばならん。」と繰り返しています。(天の浮橋について、今回最後に注として説明しておきます。)

 合気道はこころと身体、つまり魂と魄の「魂魄の調和が大切」であり、魂魄の中間領域を扱う武道だと言えます。植芝翁が精神と肉体の統合に、古事記にある「天の浮橋」のイメージを持っていたというのが、実に興味深い。「心」と「肉体」とそれを結ぶ「気」の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければならない、それには「天の浮橋」に立って、円を描く、円を知らねばならないと植芝翁は言います。意識と無意識(身体)をつなぎその統合されたものをマンダラでイメージしたユングと本当によく似ている。おそらく心理学(精神医学)と武道のそれぞれの世紀の大天才は同じものを見て同じ表現をしていたのでしょう。

 

 

 また、老荘思想で万物の根源を「道(タオ)」と言っているのも興味深い。「道」は「橋」と同じニュアンスでしょう。ただ、昔の中国というか老荘においては分断があまりないので、橋より道のイメージなのかもしれません。それでも「つなぐ機能」が万物の根源というのは、「天の浮橋に立つ」「意識と無意識の統合」という、癒しや成長、生成のエネルギー(古事記では産霊)は、分断されたものに「橋がわたされたとき」になされるというイメージでしょう。

 

 

 そして、ここまでは個人内での統合について書いてきましたが、これは当然、人間の間の「橋」についても言えます。心理療法は個人の内部での「橋わたし」が行われることと、セラピストとクライエントの間に「橋がかかる」ことが必要です。合気道でも二人の間に「橋がかかる」ことで相手の気を尊び調和した技になります。つまり一人の人間内の「橋わたし」とその場の二人の人間の間の「橋わたし」という入れ子構造になっているのです。それが外に広がれば人同士から人と自然、宇宙とのつながりとなります。また個人内で深まれば、無意識や身体は個人を超えて自然や宇宙とつながっていきます。

 

 だから、心理療法家も武道家も、まず自分の意識と無意識、精神と身体を統合し調和しておかないといけない。同時に、相手とつながり交流し調和しないといけないのですね。これを維持した状態にするのは本当に難しい、一生修行する道なのでしょう。 

 

 

 最後に、こうしてみると、心理療法も合気道も神道も、分断・分裂を望ましくないものとし、統合、つながり、橋わたし、こそ大切にされてきたのですね。壁を作ることは、いろんな事情で一時的には必要なケースもあるのかもしれません。しかし人間の強さ、偉大さ、美しさは、つながり結び合わさり「橋をかける」ことこそがその本質なのでしょう。

 しかし現世はユングや植芝翁の偉大な直観から遠のいているような・・・。せめて心理療法の場だけでも、「橋がかかる」ようにしていきたいと思います。

 

 

「天の浮橋」は高天原と葦原中国、つまり地上をつなぐ橋です。イザナギとイザナミが最初の大地を産んだ場所でもあり、天孫降臨もこの橋を使ってなされました。

 植芝翁は「真人を通してこの世界へ実在のこれに顕示する機関」と説明します。つまり精神を実在するものに(物体や肉体)に変化させる機関ですね。やはり精神と肉体の間にあるものですし、神と人間の間にあるものです。

 また、そこには道案内としてサルタビコノカミ(猿田彦神)がいます。合気道にはいくつか守護神がいますが、猿田彦神もその一つです。一般的に武道の神は鹿島神宮のタケミカヅチや香取神宮のふつぬしのおおかみが代表ですが、合気道は相手に打ち勝つことをテーマとしていないので、心身と宇宙との調和を道案内する猿田彦神という象徴をもっています。