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ムーミン谷のカウンセリング⑥-傷ついた癒し手ムーミントロール-

 今年はムーミン誕生75周年、いよいよ主人公について書きます。

 ムーミントロールの性格、特徴を考えてみると、やさしい、まじめ、繊細、傷つきやすい、空想好き、正義感が強い、自己中心的、という感じでしょうか。 ただ、どれもそんなに強い傾向ではなく、周囲のキャラクターがかなり個性が強くくせ者ぞろいなので、主人公の個性は弱い気がします。ムーミンの持つ要素は、周囲のキャラクターも持っていて、ムーミンより強烈になっている。やさしさはムーミンママ、空想好きと自己愛、プライドはムーミンパパのほうがよっぽど強い。スナフキンのように勝手気ままに過激には行動できない。まじめで繊細な点はミイにからかわれてしまう。

 つまり、ムーミンはかなり“ふつう”な性格だと思うのです。だからこそ、読者は主人公に感情移入というか自分の視点を合わせ、周囲の過激なキャラクターたちを楽しんだりあきれたり尊敬したりができるのでしょう。

 

 さて、“ふつう”なムーミンは、作品を通して成長する存在でもあります。パパやママ、ミイ、スナフキンはかなり人格ができあがった存在で、あまり変化しません。(とはいえパパとスナフキンの変化はすでにブログで書いています。ママについてもいずれ書きます。ミイは無敵なので変化しません。)しかし傷つきやすいムーミンは、成長の余地があり、その自己中な性格がかなり変化していきます。

 自己中と言っても、わがまま、自分勝手ではありません。むしろやさしく気づかいできる子。でも、彼は自分の感じたこと、考えたことが正しいという立ち位置しか持っていないのです。基本的にやさしくまじめだからこそ、そんな自分の判断は正しいと思ってしまうのでしょう。不良は自分が悪と思っていますが、優等生は自分が悪ではないと思っているのと同じかな。 この自己中心性は子ども~青年にとっては当然の心理です。

 

 ムーミンシリーズは、そんなムーミンの価値観が揺さぶられていく物語でもあります。 まじめで繊細であるがゆえに自己中になり堅苦しいムーミン。その視点が柔軟になり、自分以外の存在を認め、他者を本当に思いやれるようになっていきます

 

 それは『ムーミン谷の冬』にて描かれます。ムーミンシリーズのなかでも、この作品から深みを増していく記念碑的作品だと私は思っています。

 ムーミンたちは普段は冬は冬眠しています。ところが、ムーミンだけがなぜか目覚めてしまいます。そこで人生初の冬の世界で生活していくのですが、ムーミンは最初はなじめません。冬の世界は常識が違う。冬の世界の生き物は、かなり陰キャで、コミュニケーションもうまくとれません。ムーミンは夏の世界が“ほんとうの”世界だと主張します。

 しかし冬の世界で出会ったトゥーティッキは「ものごとってものは、みんな、とてもあいまいなものよ。まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね。」「なにもかもたしかじゃないのね。」「(この小屋はムーミンのパパのものだと主張すると)あんたのいうとおりかもしれないけど、それがまちがいかもしれなくてよ。夏にはこの小屋はあんたのパパのものでしょうさ。でも、冬にはこのおしゃま(トゥーティッキの児童向け訳)のものですからね。」「(夏がほんとうの世界と言うムーミンに)だけど、いったいどっちの世界がほんとうだか、どうやってわかるの。」とムーミンの常識をゆさぶります。 この見方は東洋的というか「色即是空・空即是色」や「胡蝶の夢」のようで、仏教的、老荘的ですね。ただ、西洋であろうと、自分の立場が相対的なものであるという視点を持てることは大人の条件であり、他者を認め多様性を認める第一歩です。ムーミンはこの相対的なものの見方に反発しつつ、トゥーティッキに教わりながら、価値観の異なる冬の世界の生活が始まります。

 さて、次第に冬に慣れていったムーミンですが、スキーとらっぱ(ホルン?)を愛する元気なヘムレンさんがやってきます。冬の世界に唯一の陽キャです。ところが、ムーミンは彼とも仲良くなれない。善人なのですが、あまりに元気すぎてうるさくて、ムーミンの繊細な性格とは合わない。また、ムーミンも冬の価値観を身につけつつあったこともあるでしょう。さらに、ヘムレンさんは自分の感覚、感情のみ信じ、他者への共感性がないのです。そのパワフルで自分を信じ切っているあつかましさが陰キャの冬の生き物やムーミンにはがまんならない。しかし、ムーミンは冬の生き物を認めていったように、最後はヘムレンさんにもやさしい視点をもつことができます。

 春になったとき、ムーミンは自分の感じ方や価値観が絶対ではないこと、理解できない他者が存在していることを知り、一歩成長していました。そして苦しみを経験することの大切さも知っていました。 ムーミンは、自分の価値観が否定され相対化されるという傷を負いながら成長したのです。

 

 次に『ムーミンパパ海へ行く』では、自分の成長だけではなく、他者を癒す存在になります。それはモランの触れたものを凍らせる呪いを、ムーミンのおもいやりがとくエピソードです。詳しくはすでに書いたブログ『ムーミン谷のカウンセリング③ー触れたものすべてを凍らせる呪いー』をご覧ください。ここでは、ムーミンは当初嫌っていたモランに、カンテラの明かりを見せるという行為だけで、彼女を癒していきます。この思いやりが、ちびのミイに傷つけられることと並行していることが興味深い。正義ややさしさを気取るムーミンの自己欺瞞をミイにずばずば指摘され、ここでも価値観がゆらぎます。自分の長所が自己欺瞞、逃げ、ごまかしと遠慮なく指摘され、繊細さを馬鹿にされ、自己像がゆらいでいくのです。

 同時に彼は失恋を経験します。島にやってくる‘うみうま’という美しい生き物に恋をするのですが、まったく相手にされず人生初の失恋を味わうのです。それと同時進行的に孤独なモランを癒す。 この関係は失恋したからそのさびしさをモランで埋めたという、共依存とは違います。ムーミンとモランは恋愛関係にはなっていないし感情をつなげてもいない。利用もしていません。ムーミンはただ、明かりを見せてあげたい、その役目を自分が果たす、というのみですし、モランも明かりではなくムーミン自身に会いたいという愛着を示しつつ、凍らせる呪いからとけても彼に近づきません。感謝の言葉も言いません。二人の距離は遠いままです。ムーミンにあるのは親切、おもいやりであり、モランはムーミンへの執着をせず、呪いがとけた後は自分らしく生きていくだけです。だから、毒舌のミイも後半はモランとの関係については茶化さないし、むしろ応援します。もしムーミンがやさしさと見せかけて自分の傷を癒すためにモランを利用するという共依存的関係を持っていたら、ミイは手ひどく批判したでしょう。

 

 ユングは「傷ついた癒し手(Wounded Healer 」という言葉を残しています。傷つくことではじめて傷つくということがわかるし、癒されることではじめて癒しがわかる。つまり傷ついた者となってはじめて治療者になれる、ということです。ムーミンの成長物語は、この「傷ついた癒し手」になっていく物語だと感じました。

 

 自己像のゆらぎや否定、異質な他者を認めることは傷つきが伴います。それがない自己理解や多様性は未熟なものです。自分にとっては「悪、醜い、くだらない、おそろしい、劣っている」というものを、価値あるものとして認めなければ本当の多様性とは言えない。自分に「悪、醜い、くだらない、おそろしい、劣っている」部分があると認めなければ、本当の自己理解とは言えません。

 

 自己否定という傷を通じ、ムーミンは成長し、他者を癒せるようになり、かつ依存せず自分らしくいられるようになっていったのです。