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ムーミン谷のカウンセリング⑧-ママはいつでもママらしく?ー

 今回はムーミンママについてです。いつでも何でも受け入れてくれるやさしいママ。明るく穏やかな人柄と、決して子どもたちに無理強いしないで教育し、ストレンジャーもなんなく受け入れる度量の広さ、精神的な安定性、まさに理想のママとして描かれています。ニンニの考察でも書きましたが、ムーミンママの深い知恵と態度はカウンセラーとしてもとても参考になります。

 

 ところで、私はスクールカウンセリングでも開業相談室でも、発達障害のお母さんの相談をたくさん受けてきました。その感想としては・・・本当に、お母さんというのは大変です!これまでお会いしてきたお母さんは、多くの場合、家事、育児、教育、のメイン担当者になっているからです。(もちろん、それらに加えて仕事もあります。)そうそう、最近、ポテサラ論争なんていうのもありましたね。

 

 女性の社会進出とよく言われましたが、男性の家事・育児進出がまだまだ少ない。例えば男性も制度上は育休をとれるようになってきましたが、まだまだ少ないですね。新型コロナの影響で在宅ワークも増えていますが、やっぱりお父さんよりお母さんが子どもの面倒をみています。子どもが父より母に甘えたいということも多いので、その面では仕方ないのかもしれませんが、それならせめて料理や洗濯などは男がやるのが、仕事量としては公平だろうと思うのですが、男性はなかなかやってくれないですね。

 ときには、夫育・メン育(?)みたいなことも女性の役として重くのしかかるケースもあります。お父さんが部屋をちらかしてたり、金遣いが荒かったり、子どもとの接し方が下手な場合なんかは、夫のしつけ(?)もしないといけないことがあります。(師の福島哲夫先生のブログにもこの辺のこと書いてあります。)

 

 これほど大変な母親というものを女性ができているのは、母親という役目をしっかり果たしているということなのでしょう。人は自分そのものでは生きていけません。その場にふさわしい役割を果たしていないと、不安定になるのです。

 しかし、現在において母親という役は大変すぎるのではないかと感じます。確かに、その役は、未来の人類を育てるという、人間として最重要なお仕事なのでしょう。しかし、その役を果たすために男性も社会ももっと支援しないと、母親役がきつすぎると思うのです。

 

 母親が母親であることのつらさ、それはムーミンママにおいても描かれています。『ムーミンパパ海へ行く』では、あの穏やかなムーミンママの精神状態が、かなり不安定になる描写があるのです。

 『ムーミンパパ海へ行く』では、一家はパパのロマンとプライドのため、住み慣れたムーミン谷を離れ灯台のある小島に移住します。パパはママに「お前は花だけで何も持たなくていい、仕事は全部私が引き受ける」と、古い男らしさの幻想を作り上げようとします。ママに優しくしているつもりでしょうが、ママの大好きな花や植物、土(つまり大地とのつながり)の少ない不慣れな土地に連れてこられたママの本当の気持ちは無視しています。しかし前向きで適応力の高いママは不平不満を言わず、島でもやるべきこと、つまり家事と子育て、夫の世話、をこなしていきます。

 しかし、ムーミンは自立し一人暮らしを始めますし、ミイはもちろん自由に動き回っています。パパは勝手に自分をお姫様扱いして、そのあとは趣味に夢中、海は大地と違い不規則に荒れ狂う、そんな自分の性と合わない生活をしているうち、精神的に不安定となっていきます。夜明けに目が覚めたママは、一人暮らししているムーミンとミイのことを考えながら、

 (母親というものは、すきなときに外にいってねるというわけにいかないのがざんねんね。ほんとは母親こそ、そういうことがときにはできるといいのにさ。)

 と思います。

 ムーミンママはかなしい気持ちになっていき、ムーミン谷の夢を見ます。そして、壁に絵を描くようになります。それは、島にはない元の家にあった花やりんご、そして自分です。他の人たちは描きません。彼らは島にいるから。ムーミン谷にいるのは自分だけなのです。そしてムーミン谷をはっきり思い浮かべて絵に打ち込むうち、「もとのうちに帰りたいな。…もう、こんなおそろしい荒れはてた島や、いじわるな海をはなれてうちへ帰りたいな。」と独り言を言います。私は、いつものんきで適応力のあるママがこんな弱音を吐くとは…とムーミンママが本当にかわいそうで切なくなりました。パパのわがままに自己主張をせず従い、子どもは自立していき、周辺の環境は自分のなじんだ世界とは程遠い…。この発言はママがかなり追いつめられているととらえなければなりません。

 その分絵を描くことにのめりこむのですが、上に書いたセリフのあと、ママは壁の絵の世界に入り込んでしまいます。ファンタジーにとらわれた状態です。ママの精神安定に必要なセラピーであると同時に精神的に危険な状態です。

 家族は、ママがいなくなって心配しますが、ママはひとしきり絵のムーミン谷でのんびり癒されたあと、ごく自然に戻っています。

 ムーミンパパ「しかし、おまえ、わしたちをこんなにまでおどろかすのはよくないね。おまえはいつもここにいるーこういうきまりになっているんだ。それをよくおぼえていなさい。」

 ムーミンママはため息をついて「それがたまらないのよ。たまには変化も必要ですわ。わたしたちは、お互いに、あまりにも、あたりまえのことをあたりまえを思いすぎるのじゃない?」

 アニメではあまり出ない原作ならではのシーンでしょう。いつもやさしく、ママの中のママ、母性の権化、であるムーミンママが、パパからの母性の押し付けに疑問を持ち、精神的に不安定になっているのです。

 

 ママは絵を描きまくり、ミイが自分も描いてほしいと言っても断ります。ひたすら、ムーミン谷と自分の姿のみを描いていきます。また、岩ばかりの島に海藻を使って土をつくり、野菜やりんごを育てようとします。自分の庭、菜園を作ろうとします。それには時間がかかることは承知の上で、やり続けます。自分らしくいられる場所を、現実と空想の両方で作ろうとしているのです。しかし、それがすでに過去のものになったムーミン谷を再現しようとしている限り、島の現実には合いません。ムーミンママは、島に応じた現実を生きなくてはいけないのです。失われたムーミン谷をなつかしむだけでは、こころの空虚が埋まることはありません。

 

 それでも、野菜を育てたり庭を造ろうとする努力や絵にのめり込むことは、セラピー的な効果を発揮します。絵画療法や箱庭療法、森田療法の「作業期」のようです。空想を表現し、肉体的な作業を通じ、ママはリンゴの木が根付くには長い時間がかかることを腹の底から理解し、ムーミン谷へのあこがれを捨て、この島に腹をくくって定着する覚悟を得ていきます

 同時並行的に、ムーミンパパも海との付き合いを通じ、支配し言うことをきかせることができなくても愛することができることを学びます。パパが支配と理解をあきらめることと並行して、ママもムーミン谷へのあこがれをあきらめるのです。夫婦の変化が同時に起こることは、セラピーでもよくあります。逆に、どちらか片方を変えようとしたり、変わろうとしても難しいものです。

 

 ママは最後に、壁の絵にまた入れるか試そうとしますが、何も起こらず

 (もちろんわたしは、もうこの庭にははいりこめないんだわ。もうホームシックはきえちゃったんだから。)

 ファンタジーはその役目を終え、ただの絵に戻ったのです。それはムーミン谷がママの中で思い出に変わったということです。

 

 

 私は子どものために、母性というのはとても重要だと思っています。そして、それは女性が担当することが、どうしても多い。

 しかし、ムーミンママという母性の権化も、夫や子ども、そして環境との関係性で初めてママになれるということを示しています。それがないと、その役割がとても苦しいものになるということでもあります。ママが言うように、たまにはママをやめて外に出たり、役割を変化することも必要です。母性を当たり前と考えてはいけないのでしょう。

 母性を女性に担当してもらう以上、男性はその支援を手厚くしなければなりません。当然、社会全体、政治、文化も、です。また、絶対に女性が母性を担当するものでもないでしょう。要するに、どんな形であれ、もっもっと助け合いしていかないと、お母さんたちが苦しいままになってしまいますね。そのうち限界を迎えますよ。怖い予言ですが…。

 そして、男性の支援として、仕事をしっかりやってお金を入れればいいというものではありません。少なくとも現代は。ムーミンパパが支配や理解を捨てていくように、男性も自分の常識を変え成長すること、同時に家事・育児・教育にもっとかかわることが必要だと思います。

 

 『ムーミンパパ海へ行く』に描かれたムーミンママは、母性と自分らしさのゆらぎから、島への適応を得て癒されていくママ個人の成長と癒しの物語であると同時に、現在の母性が置かれている不安定で苦しい状況も見て取れるように感じました。現代的なテーマだったんですね。あ、現代のフィンランドのお母さんの置かれている状況は、異なっているかな。現代の日本のお母さんの苦しみですね。