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不登校生はなぜ“めんどうくさがり屋”なのかー小石を運ぶシーシュポスー

 不登校生に簡単な課題を与えると「めんどうくさい。」と拒否されることがとても多いです。

 我々カウンセラーも教師も親も、ついつい「家で漢字のひとつでも覚えたら?」「計算ドリルなら一人でもできるでしょ。」「保健室にだけでも登校したら?」などと言ってしまいます。大人としては、妥協して簡単な課題を提案しているつもりなのですが、それでも彼ら/彼女らは「めんどうくさい。」とやりたがりません。そうするとついつい、“怠けもの”、“めんどうくさがり屋”と思ってしまいます。

 なぜ彼ら/彼女らは、そんなに“めんどうくさがり屋”なのでしょうか?

 

 結論から言いますが、私は不登校生というのは、“シーシュポス”の神話を生きているからだと考えています。

 みなさんはギリシア神話のシーシュポスをご存じですか?大神ゼウスの怒りを受け、冥府(地獄)で罰を受けることになるのですが、その罰は、山の上に大岩を運ぶというものです。この罰がつらいのは、岩を山頂に運んで置くと、ごろごろと下に転がり落ちてしまうということです。シーシュポスはまた一からやり直す。これを永遠に繰り返すというのです。終わることのない無駄な労働、徒労、これがシーシュポスの罰です。

 私はこの神話を大学受験生のときに知り、この罰に呪いともいうべき恐怖を感じました。今思うと、成果が出るか出ないかわからない自分の状態と重なったせいかもしれません。

 

 ユング派はクライエントさんに神話や昔話の登場人物をみることがあります。神話のようなテーマを負っているような悩み、苦しみは確かにあります。神話を生きる、と表現されることもあります。

 

 私は不登校性がシーシュポスの神話を生きているのではないかと思うのです。仕事も勉強も、その他あらゆる社会的な活動は、いくらがんばったところで意味がないシーシュポスの罰。だから、岩を運ぶことをやめているのが、“めんどうくさがり屋”な彼ら/彼女らの姿なのではないか?

 ただし、古代ギリシアと違い、重労働や死の恐れが少なく生きることの重さを感じることの少ない現代の不登校生は、小石を運ぶシーシュポスなのではないでしょうか。

 これって、大岩よりは楽そうだけど、いっそうむなしいのではないでしょうか。シーシュポスはそれでも大岩を汗だくになって運んでいます。もしかしたら、一瞬は達成感を持つのかもしれない。しかし、簡単に運べる小石を山の上に置きに行く、するとその小石は転がり落ち、また最初から、たいしてつらくもない行為を無意味に繰り返す…。シーシュポス以上に無意味でむなしく、それゆえ罰としては、もっとつらいものになると感じます。やれないことはないけど、やったって無意味、徒労…。

 この状態は、とてもとても、つらいのではないでしょうか。こんな簡単で無駄なこと、やろうと思えばやれるけど、やる気になれないでしょう。

 簡単な課題をやろうとしない不登校生は、シーシュポスの罰の状況に置かれ、それを拒んでいる状態なのではないでしょうか。そう考えると、彼ら/彼女らの“怠惰”をとても責める気にはなれません。

 

 しかし、なぜシーシュポスはこのような罰を受けるのでしょう?神話研究家、ケレーニイによると、ゼウスを怒らせたシーシュポスは最初は普通に死んで冥府に行くだけだったのですが、死神(タナトス)を巧みにかわし、だまし、2回も死から復活します。その後とうとう捕まり、岩運びの罰を受けるのです。つまり死を欺いた罪なのです。

 

 ユング派の心理療法家カーストは、シーシュポスの罰は、死を受け入れないこと、あきらめきれないことからくると述べています。それは終われないということでもあります。ありえない大きな期待をしたり、自分の存在を過大に評価したりすることもその一つです。完璧主義もそうです。

 つまり目的、ゴールが現実的でなく過大であるがゆえに、到達できない絶望を感じ、コツコツとした小さな仕事、一歩ずつ目的に近づくという努力が、無駄に感じてしまうのです。これがシーシュポスの罰の本質です。

 確かに、不登校生のカウンセリングをしていると、完璧主義や過大な目標を想定している人が多いです。完璧主義は強迫的、プライドが高いとも言えます。不登校生も、漢字練習や保健室登校ではなく、一気に好成績をとることや教室に復帰しなじめるようなことを空想していると、ささやかな課題から始めようとしなくなるのです。さりとて空想している目標が一気に実現しないこともわかってはいるので、ささいな努力にも大きな成果に対しても、身動きできず無気力、無力感にとらわれるのです。

 

 では、この無益な徒労からはいかにして脱出できるのか?シーシュポス的状況はどうしたら解決できるのか?

 

 まずヒントとなるのは、シーシュポスを描いた文学者カミュでしょう。そう、『異邦人』や最近話題の『ペスト』の作者です。彼の哲学エッセイ、その名も『シーシュポスの神話』です。この著作はとても難しいので、“めんどくさい”への対策となる部分のみ、簡単に述べます。

 カミュは不条理とよく言います。このエッセイで説明しているんですが、不条理とは、「世界が理性では割り切れず、でも人間は明晰を死に物狂いで求めており、それが対立している状態」とのことです。そのつらさから逃げるために、人間は宗教をはじめとした虚構を信じ逃げると言います。希望もそうで、希望という偽りの虚構を作り出してそれを持つことで安心しようとするのです。自殺も、虚構への逃げだとカミュは言います。カミュはそれらを否定し、自分の人生は自分で引き受けるべきと主張します。つまり、神や悪魔、トラウマや陰謀が裏から自分の人生に影響を与えているのではなく、偽りの希望や救いを想定して自分の人生をごまかすのではなく、自分の人生そのものを受け入れることで、人生は自分だけのものとなるということです。シーシュポスはそれを行っている英雄なのです。実は、シーシュポスは大岩を運ぶ仕事を達成できるという希望を持たず、運ぶこと自体が人生だと受け入れているということです。カミュはシーシュポスは悲劇ではなく笑顔で山を下っていくと想像しています。

 う~ん、難しいですね。でも不登校生には重要なヒントとなります。自分の状態は誰かのせいではなく、自分自身でその運命を引き受けろということです。それは自分の人生に責任を持つということ。他人のせいにしている限り、それは終わりのない苦痛、シーシュポスの罰になるのです。自分を操るものなどおらず、それらに影響されず、ただ自分の人生を生きることを求めることで、それは無益な労働ではなく、意味のないままでも充実してくるのです。

 これは心理療法では、逃げずに自己分析を続けていくと、過去のトラウマや無意識的な感情に振り回されることがなくなるのに似ています。自分の弱さもみにくさも不幸も含め、自分の人生は自分のもの、そう理解すると、過去や一時の感情に振り回される必要はなくなるのです。

 

 一方で、このカミュの主張は強すぎると思います。カーストも、その姿勢を心理療法としても重要と評価しつつ、その弱さにも言及しています。

 カーストが言うには、シーシュポスがエロス的ではないという弱点があるのです。エロス、つまり愛や人間関係です。温かい人間関係は、信頼や献身にもつながるので、シーシュポスは他者から愛されず愛することもできないのです。確かに、シーシュポスは一人で岩を運ぶ、孤独な存在です。

 ここで、日本の民間伝承である“賽の河原”と比べてみましょう。あの世での無益な徒労という点で、シーシュポスと似ていますね。あ、若い人は“賽の河原”ご存じですか?幼くして亡くなった子供は、あの世とこの世の境の河原で石を積むんですが、それが積みあがって高くなると鬼が来て崩してしまうんです。子どもはまた最初から作り直す。泣きながら延々とこれを繰り返すのです。似てますよね。しかし、賽の河原には救いがあります。慈愛に満ちた地蔵菩薩が、親代わりに幼子を抱いて救ってくれるのです。

 つまり、カーストが言うように、シーシュポスに欠けていたエロスが、賽の河原の伝承にはあるのです。心理療法において、やはり温かい人間関係がシーシュポス状況から抜け出すのに必要でしょう。セラピストが温かい人間関係を示すこと、信頼関係を築くことは、不登校生はほかの人たちとも温かい関係を結ぶきっかけにもなります。不登校生はクラスメイトや学校に愛着を持っていなくては、教室復帰への努力は無益な努力です。学力をつけることも、社会への愛着や自分への信頼がなければ無駄に感じます。めんどうくさい”を連発する不登校生には、まず温かい人間関係を結ぶ工夫が必要です。カーストは、人は愛によって力を得て、思いのままにならない世界に立ち向かうことができる、そして接するものすべての価値が高めることができると述べています。これは、すべては無駄、無益、“めんどうくさい”、とは正反対ですよね。温かい人間関係は、不条理を受け入れるエネルギーとなるのです。

 

 最後に、神話を生きている人は、その神話をしっかりと生きなければならないということです。これは心理療法においても、そのテーマを扱い、話し合い、実践していくこと。〇〇療法というのも、そのクライエントさんが生きている神話に合わせてやっていくべきでしょうね。神話とまったく関係ないように思える、行動療法も、行動療法をすることがその人の神話と関わっているかによって効果も違ってくるのでしょう。

 

 シーシュポスの神話は、不登校の神話です。そしておそらく、ひきこもりや新型うつの神話でもあるのではないでしょうか。

 神話は大いなる人類の知恵であり、その考察は現代の心理的な悩みのヒントとなるかもしれないですね。

 

 

*このブログは『心理臨床学研究 第38巻第2号』に掲載された学術論文を、事例部分を省き表現をブログ用に書き換えたものです。