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ベルセルクとバガボンド、二人の剣士にみる自我と祈り

 物語には古今東西、無数の戦士、勇者がいます。今回はマンガ『ベルセルク』(三浦健太郎著 白泉社)と『バガボンド』(井上雄彦著 講談社)という二人の剣士の物語を通じて、意志と自我、祈りについて考えます。それは変化を意図的に起こそうとする心理療法と意図的、意識的であることをやめようとする心理療法の違いにもつながるものです。

 

 マンガ、アニメのヒーローは、社会からの逸脱者が多いです。彼ら/彼女らは組織や権力を否定し、群れず、自分の信念をつらぬきます。そのために、困難や苦労をいとわず、またそれに見合った超人的な力を持っています。たとえばブラックジャックは医師会会長や刑事や国会議員からの訴追されても、手術の腕で彼らやその家族を救って、その訴追を回避して自由に生きています。『紅の豚』のポルコロッソも、イタリア空軍に属さず国家への貢献もしないで、飛行艇の腕で賞金を稼いで自由に生きています。

 ヒーローの人生観は、自分の信念をしっかり持ち、組織に従わず、その分実力をつけて自力で困難も自前で引き受けるというものでしょう。まさしく自己責任論者でありその責任からは逃げようとしません。そのため見た目や行動は、ワイルドでパワフル、たくましく、孤高です。

 

 『ベルセルク』は中世ヨーロッパ風の世界が舞台の、ガッツという孤独な剣士の物語です。彼の人生の詳細は長くなるので記述を避けますが、彼も上記したヒーロー像そのものです。彼があるエピソードで、宗教集団の司祭(審問官)とその騎士団と絡みます。いろいろあって、司祭(審問官)が怪物化し襲ってくるのですが、ガッツは彼の神への祈りに対して「神様にゴマすり」また戦いに勝ちとどめを刺すシーンでは「神に会えたら言っとけ!放っとけってな!」と叫びます。そのあと、貴族の娘で騎士団長の女性もともに周囲をおおいつくすドロドロの化け物と戦うのですが、追い込まれ、彼女が絶望のあまり神に祈ろうとするとガッツは「祈るな!祈れば手がふさがる!」と鼓舞します。彼は絶望的な状況でも意志の力を保ち、戦い続けます。彼は祈りません。手は祈りのためでなく、自ら戦うために動かす。神の助けはいらないので介入せず放っておいてほしいのです。実力で何とかするし、何とかならなかったら自分で責任を取るのですね。まさしく自力救済、能動的、自我による意志の力を頼りに生きています。

 

 さて、一方の『バガボンド』です。こちらは戦国時代末期~江戸初期の宮本武蔵の物語です。武蔵とガッツはよく似ています。剣の腕を信じ、組織や群れを嫌い、実力だけが頼りです。二人ともワイルドそのもので、戦えば人外のように強い。しかし、武蔵は、70人を斬り、自らも足に傷をおって歩けなくなります。罪悪感と剣士として生きられなくなるという絶望感におちいったところで、禅僧沢庵と対話します。武蔵は祈るのですが、祈りの対象は「自分の歩いてきた道」です。これに沢庵は「まだどこを切っても自分なのか」と水をぶっかけ、「よりどころは己」というやり方では先に進めないから罪悪感を抱え歩けなくなったと説法します。

 つまり、武蔵はあくまで自分中心である自我(沢庵は我執と言います)しか信じていない。「自分の歩いてきた道」に祈るのでは、自我の狭い判断の外に出れないのです。戦いの強さへの自信、実績、信念、は、しょせん自分という小さなものに過ぎない。我執にとらわれてる=「どこを切っても自分」なのですね。

 そして沢庵は「天に向かって祈ろう」「心に天を抱いて祈ろう」と勧めます。天に祈るとは特定の宗教が言う天ではなく、自分がつながっていると感じられ、我執の判断ではなく自分をあずけられるものであればよいのでしょう。そしてそれとつながっているがゆえに自分の心に、つまり自分の内部に感じられるものに祈る。

 

 『バガボンド』のこのエピソードを読んで、私も劇中の武蔵同様、ショックを受けました。「自分の歩いてきた道」に自信持ちそれをよりどころにするというのは、批判されようのない無条件の正しさ、あるいはカッコよさだと思っていたからです。

 そして、私は福島哲夫先生にスーパーヴァイズを受けていたときに、『バガボンド』のこのエピソードを読んだ直後に先生から「田多井くんは自分が治そうという気持ちが強すぎる。でも我々にできることは祈ることくらいなものなんだよ。」と言われ衝撃を受けたことがあります。共時性とはこういうことでしょうね。人生にかかわる意味ある偶然の一致。私は自分の歩いてきた道に誇りを感じるのは正しいという価値観でしたし、祈るなんて甘えだ、という人生観でした。しかし、『バガボンド』を読んだ私は揺さぶられていました。その動揺している最中に、師から、自我の欲にとらわれかえってセラピーがうまくいかないことを指摘され、意志を弱め祈ることを勧められたのです。

 治したいというのは善意と思われるかもしれませんが、結局欲です。人を救いたいとか世の中を良くしたいというのも、自我という小さなものの欲です。善意であれ、~したいという気持ちは我執となってしまいます。

 その後、私は箱庭療法の技術を高めようと、大住誠先生の瞑想箱庭療法の指導を受けています。この方法は自我を使わないというのをおそらく心理療法では最も求めている方法でしょう。河合隼雄先生は治療者が何もしないことに全力をあげ、タオの状態になると、意図せず自然とクライエントも回復するという「自然モデル」を提唱しました。大住先生の方法は箱庭療法で「自然モデル」を行う技法と言えます。そこでは治そうとか良くしようというセラピストの我執にとらわれず、いかなるイメージも瞑想して流していくよう指導されます。福島先生から指摘された「自分が治そうという気持ちが強すぎる」という指摘から、私なりに試行錯誤し現時点で行きついた技法だと言えます。(もっともこの方法は習得するのが難しく、行きついたといってもマスターしたという意味ではありません。また、私なりの、特に合気道セラピーと異なる面もあるので、この先は私オリジナルな技法の開発を目指しています。)そして、それは自然モデルの対局にあるような認知行動療法においても、何もしない、受容を重視するマインドフルネスが導入されてきている心理療法界のトレンドにも対応しているようです。

 武道においても技をかけてやろうとか効かせようという我執にとらわれると、かえって効きません。また、自分の心身のクセや動きの特徴のまま動くと、やはり効きません。なにより、技が不快なもの(痛い、不自然、緊張状態)となります。そこでは自分の動きや心身ではなく、それを捨て去って型を信じよりどころにするのです。そういう意味で個性は邪魔になります。心理療法においても、「私」という我執は邪魔になります。治す、というのは操作的なものであり、かえって自然治癒力を妨げるようです。また、心理的な症状というのはとらわれているからこそ起こる、あるいは悪化するので、自我意識を向けて治そうとすると、症状悪化のメカニズムをさらに促進することになるのです。

 

 自然治癒力を活性化し、とらわれていたものを受け流せるようになるというのは、自我ではないものに任せる、自然を受け入れるということになります。それは『バガボンド』の沢庵がいう「祈ろう」になるのではないでしょうか。

 

 ガッツや武蔵、その他少年漫画の主人公たちは、自力救済の道を進む者が多いです。「俺が、俺が」の世界です。それはたくましくカッコいい。私はたくましいとか頼りがいがあるいうのは、人間の美徳のうち最大のもののひとつだと今でも思っています。(そういえば司馬遼太郎もそう言っていました。)同時に、本当にたくましい人間になるには、小さく狭い「自分の歩いてきた道」を超えたものを信じ任せることも必要なのでしょう。沢庵の言う天とは、偶然や自然に自分の今の状態や命が支えられているということでしょう。自力救済しかしらない人間は、武蔵のように行きづまります。弱い人間は負けても仕方ない、それは自分が負けるときも同じ、という大変きびしい自己責任論になり、実際自分が負けるときになると取り乱すという、無様なことになります。

 とはいえ、『ベルセルク』の審問官や女性貴族のように、特定の信仰を持ちそれにはまってしまうのは、祈りにすがる弱さや責任の放棄、そして不寛容や他者への残虐性という、人間の最大の悪徳のひとつに陥ることにもなります。

 

 こころの悩みに対し、自力救済と祈りはどう折り合っていくのか?具体的(理論や技法上)には行動療法や心理教育、スキルトレーニングと、瞑想箱庭療法やマインドフルネスは?という議論になるのでしょうか。思想や社会のあり方としても、自己責任論と支えあいのどちらが現在とこれからの人や社会の在り方として正しいのか…。自分の心理療法スタイルはどうあるべきか。そしてどう生きるべきか…。

 

 単純な答えは出せません。自己救済や自己責任論には、漫画の主人公のようなカッコよさもありますし、なにより自由の風がさわやかに吹いています。しかしそれは超人的な強さも必要ですし、いずれは行きづまることも間違いないでしょう。祈りや支えあいには、狭く偏った自我を超え我執から解き放たれたたすがすがしい広がりと豊かさを感じます。そして人のやさしさと美しさを感じます。しかし弱さと他者依存の恐れもあり、それには情けなさと悪さえも感じてしまいます。

 

 心理療法においては、クライエントさんは意図的、意識的、操作的な自我意識で人生をやってきて、その結果行きづまり悩みにおちいっている方が多いので、セラピストはその逆の態度でいることが必要であろうと思います。武道においても自我を出す人は上達しません。それゆえ、今の私は自我意識を弱らせる方向に行く態勢となっているようですが、これで本当によいのかは、まだまだ謎です。迷い迷い歩いていくしかないのでしょうね。