いきなりですが、ムーミントロールは悲恋の少年です。複数の作品を通じ、何度もふられています。彼は感受性が豊かで空想好きなので、少しの手がかりやきっかけからイメージをふくらまし相手に憧れを抱きやすいのです。しかしそういう憧れから始まる恋は成立しないことが多い。ムーミンも悲しい恋を経験していきます。
ムーミンの恋の相手と言えば、スノークのおじょうさんだとお考えでしょう。(この固有名がついていないところが神話的ですが、アニメではさすがにフローレンかノンノンという名前がついてます。)確かにスノークのおじょうさんからはふられていない、両想いなのですが、彼女との関係は子どもっぽいもので、小学生の友だちのようなものだと思うのです。出会い方も、食虫植物につかまった彼女を救い出すとか、落としたアクセラリーを返したり、洪水のなか一緒に冒険したりと、小学生の空想のようです。これは切なさと喜び、憧憬、絶望、両義的な感情、自己愛と自己否定の狭間、といった複雑で、人格を揺るがしてしまう思春期以降の恋愛とは違います。言ってみれば、ムーミンもスノークのおじょうさんも幼稚な幻想を共有しているので、とりあえずうまくいっているのです。
しかし、ムーミンの勝手なイメージのふくらみからの憧れは、それを押し付けられた相手にとっては迷惑な場合もあります。ムーミン自身もその憧れの強さから、ふられたときのショックが大きく傷つきも大きくなるのです。
まずはスナフキンとの関係です。これは恋愛ではなく友情なので、極端な破綻にはならないのですが、それでもムーミンからの想いが一方的に強すぎるようです。スナフキンもムーミンを友だちとは思っていますが、彼は一人の時間もそれ以上に大事にしている。恋愛同様、友情も同程度の量で結ぶと言うのは難しいので、相手に対する心的エネルギー量が多いムーミンのほうが悲しい想いをしたり失望することが多いのです。
次に、竜からの失恋があります。ムーミンは昆虫採集をしていると、小さな小さな竜を捕まえるのです。絶滅したはずの地球最後の竜だと大喜びし、竜との生活を空想します。瓶に捕まえて自分の部屋に持っていきますが、自分になつくまでは家族にも友だちにも隠そうとします。これも恋愛に近いですね。恋人というよりペットに対する愛情と似てもいますが、偶然の出会いから空想で有頂天となり、家族にもカップルとして成立するまでは隠そうとする。
しかし、ムーミンの空想とは裏腹に、竜はまったくなついてくれません。ムーミンはかいがいしく世話をし、猫なで声で懐柔しようとしますが、ムーミンの想いと竜自身の想いは交わりません。やさしくしてあげればなついてくれる=愛してもらえる、というわけではないのです。人間相手の恋も、野生動物をなつかせるのと本質的には変わりません。恋するほうの想いが届く保証というか、その人のやさしさや奉仕に愛情で応える義理や責任は、人間にも野生動物にもないのです。
さらにムーミンにとって悲しいのは、竜はスナフキンにはなつくのです。いわゆる三角関係状態です。スナフキンは竜に好かれむしろ迷惑そう。またムーミンとの友情にひびが入ることも望みません。スナフキンがムーミン家からテントに帰ると、竜は窓から恋し気にスナフキンを求めます。ムーミンは涙をこらえて、竜を放し、スナフキンのところに行くことを認めます。スナフキンは自分になついている竜をムーミンのいない場所でポットに入れ、旅行者にたくして遠くで話してくれるよう頼みます。そしてムーミンには、自分の所には来なかった、竜なんてきまぐれさ、と話します。スナフキンのやさしさや、配慮でムーミンの傷つきは最小限ですみますが、 これはかなり悲しい恋ですね。
さらに、『ムーミンパパ海へ行く』では、砂浜で見つけたかなぐつ(てい鉄のことか?)から、美しい生き物「うみうま」を空想します。そして美しく魅力的な姿をふと見ることができ、どんどん美しい「うみうま」への空想が広がります。そして「うみうま」が自分を愛してくれ尊敬してくれるお話を空想しますが、現実にはまだかなぐつと少し話をした程度なのです。今回の恋は、ムーミンも思春期を迎えたようでスナフキンや竜の時以上に甘美かつ危険なものでした。きみを待ちに待っていた、どんな危険からも守ってあげたい、「いままでに見たなかで、一番美しい生もの」とまで言います。
スナフキンや竜に対する想いと同様、勝手にふくらましたイメージは、現実によって裏切られます。実際に話した「うみうま」は、自分の美にのみ陶酔し、ムーミンをからかいます。そのからかいも、かわいげがあるものではなく、ムーミンの身体的特徴や自分への恋の想いをからかうという、片想いしている者に対してもっとも残酷なからかいをするのです。確かに「うみうま」は美しい容姿をしていますが、性格的にはとても美しいとは言えません。とくにムーミンのような繊細で空想を支えてくれる関係を求める恋の相手としては、まったく似合いません。何とか「うみうま」とお近づきになるチャンスを得たのに、得たのものは自分への失望と失恋だけでした。
さて、このような重い失恋に対し、ムーミンの物語はどのように展開していくのでしょうか。
「うみうま」への恋心は家族にも隠していたのですが、失恋の痛手からママに打ち明けます。
ママは「うみうまと友だちになるなんて、できない相談だと思うわ。だけど、だからといって失望することはないのよ。きれいな鳥とか美しいけしきを見るのとおなじに、うみうまを見ることができたらそれで幸福だと思えばいいんじゃない。」
と話し、ムーミンの気持ちは少しゆるんでいきます。
でも、ママの言うように思うのは恋をしている人にはとても難しいでしょう。相手を美しいと思うのと、例えば夕日が美しいと思う感情はかなり違います。恋する相手を美しいと思うと、相手からも好きと思ってもらいたい、そしてそれは自分だけにしてほしい、という感情がすぐ出てきます。でも、夕日の美しさを独り占めしたいという気持ちはないでしょう。自分以外のみんなもその美しさを感じているのは変なことではありません。美しい夕日を見て、夕日からも愛されたい、自分だけにその美しさを見せてほしい、という人はまれでしょう。むしろ写真を撮って拡散し、多くの人とその感情を共有したいと思うでしょう。
失恋の悲しみは、相手からは自分は美しいと思ってもらえなかった、自分は好かれなかった、自分がNo1になれなかった、という悲しみと絶望なのです。
…そう、失恋の悲しみ、絶望には、“自分”への執着があるのです。
そう考えると、ムーミンママの話が失恋の薬になるヒントがあるのではないでしょうか。それは、自然に接しているときのように、こころをモードチェンジするということなのです。相手を好きになるこころの態勢、モードのままでは、つらく悲しいままです。その“好きになるモード”から、“自然と接しているモード”にこころが変わる手助けをママはしたのではないでしょうか。それは「自分が愛されたい」に代表されるような自分への執着から離れることです。
そんなの、悟りを開くようなもので、無理!と思うかもしれません。確かにそうです。いつもどこでもそんな状態であるというのが、悟りを開いている状態なのでしょう。それはまず無理です。しかし、自然を見ているときは、そうなっているわけですね。
両想いで愛し合っているときは、自分への執着のモードでいることは良いのだと思います。しかし、失恋したときは、なるべく早く、自然と接しているときのモードになるほうが、楽なのでしょう。まあ、そのなるべく早くってところが問題なのですよね。そんなにすぐに切り替えられるもんじゃない。でも、切り替えるヒントというか、切り替え先の方向性のヒントがムーミンママの言葉なのではないかと思うのです。終わった恋、報われない愛に関しては、“自分が自分が”という執着から離れ、自然を愛するようなこころに変化したほうがいいよ、というのがムーミンママのアドバイスなのではないでしょうか。
時間がたってその苦しい恋愛が切ない思い出となったとき、それは自分への執着がなく、自然と接するモードに近くなっている気がします。時間がたつとつらい恋も「今思うと自分も若くてばかだったなあ。」とか「つらかったけど、あの経験で自分は成長したなあ。」などと思えます。それは、自分への執着が軽くなった言葉です。だって、その時点の自分に執着していては、自分が若くばかだとは思えないし成長もしません。執着は今の自分の現状維持ですので、成長の正反対です。過去の失恋を穏やかに振り返れるというのは、自分も流れゆくものだということを知っているのです。「あの人はきれいだったなあ。」となつかしく思えるとき、夕日がきれいだったという気持ちと似たものになっているのでしょう。
自分が愛するように相手からも愛されたい、恋する人の当然の心情です。もしそれがうまくいかなくてつらくてたまらないときは、自然を愛するようにその人を愛することができたら、あるいは自分の一生の中の物語の1ページにすぎないと思えたら、失恋は切ない思い出となり、胸の痛みをやさしく包み込んでいけるような気がします。