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アサーションと心理療法と合気道の原則は同じ

 先日、アサーション関連の本を久しぶりに読みました。アサーションというのは、「適切でさわやかな自己主張(自己表現)」とでも訳すほかなく、日本語にはあまりないニュアンスのようでカタカナで使われることが多いです。

 アサーションは、(私の経験領域では)とくにスクールカウンセリングにおいては大切で、不器用なコミュニケーションをとってしまう児童・生徒には教えて行かないといけないものですね。どちらかというと、心理療法というより訓練的で教育的なので、行動療法やソーシャルスキルトレーニングではおなじみですが深層心理学的な心理療法ではあまり行われないようです。また対人関係や権利の主張といった、現実的で社会的な問題に対応する要素が強いようです。

 ただ、心理士(師)として経験を積んでから久ぶりにアサーションについて考えてみると、実はほかの心理療法と、考え方、基本的な姿勢、方針、原則が、同じような気がしてきたのです。

 

 わかりやすいので、アサーションとトラウマケアで考えてみましょう。アサーションは、現在に現実で降りかかってくる相手からの不快なメッセージや困難な事態に対し、どう適切に自己主張し表現し対処するかです。トラウマケアは、過去のイメージとなっていてこころの中から降りかかってくる不快なメッセージにどう適切に自己主張し表現し対処するか、ということです。つまり、アサーションとトラウマケアの違いは、現在現実に対処するか、過去、心の中のイメージに対応するか、の違いだけで、どう対応するかは同じでよいのではないかということです。

 現実世界で自分を否定してくる言葉には、「ノー」と言うべきであり、またただこちらの「ノー」を乱暴に伝えるより良い方法があればそれを採用するほうがよいでしょう。同様に、こころの中から自分を否定する言葉が聞こえてくるなら、それに対し「ノー」と言い、また上手に対応できるならそうするのがよいでしょう。

 こころの中の声という意味では、トラウマ記憶だけでなく、認知のゆがみやスキーマ、また深層心理学的な無意識やシャドウ、アニマ・アニムスからの声も同様です。また、ストレスやこころの悩みが身体症状になっている場合もそうです。他者からのメッセージという点で、現実の他者も心的なイメージも、身体症状も、同じように適切に対応することが必要だし、その適切さは似ていると私は考えています。

 

 アサーションには、よく「攻撃型」「受け身型(非自己主張型)」「自他尊重型(アサーティブ)」などと3つのパターンを挙げられています。小学生に教えるときは「いばりやさん」「おどおどさん」「さわやかさん」などと伝えます。「自他尊重型」が一番優秀というわけではなく、場合に応じて適切に対応できる柔軟性が大切だと言えます。ただし、「自他尊重型」が一番身に着けにくいものだとは思うので、強調する必要はあると思います。

 認知の歪みや過去の虐待体験の記憶、内的イメージの声に対しても、同様でしょう。「お前はダメ人間だ。」という認知やスキーマからの声、過去の虐待者からの声に対し、時には「攻撃型」で「そんなことあるものか!」と言い返し、時には「あなたもこれまでの体験からそういうんだろうけど、もう別の方向があるよ。」とていねいに説明していく。

 ストレスからの身体症状には、時には「受け身型」として症状の主張を聞いて休むことも必要だし、時には身体症状と対話し適切で無理のない行動に改める。

 そして、やはり内的なイメージに対しても「自他尊重型」が一番難しいし、慣れていないのではないでしょうか。心理療法を受けに来るクライエントさんは、内的に自分を攻撃するものから「受け身的」に苦しめられています。したがってそれらを無くしたい、変えたいと「攻撃的」に考えセラピーを求めます。

 

 しかし、対人関係において、相手に「攻撃的」に出ると相手も反発してこじれるように、内的イメージも変えよう・無くそうとすると、かえって認知や症状を強めてしまうことにもなります。

 そこで、近年の第三世代の認知行動療法では認知や症状を変えようとしません。ユング派は以前から意識と無意識の対話を促進し意識も無意識も変化していくアクティブイマジネーションという技法を行います。

 これは、自分を苦しめる認知やスキーマ、過去の記憶、無意識に対し、自我が一方的に主張する「攻撃型」ではなく、アサーティブにかかわる方法と同じなのではないでしょうか。確かに、自分を苦しめるものは、交渉の余地なしに消え去ってもらいたいと感じるのは自然なことですが、現実世界の対人コミュニケーションでも、イメージの世界でも、それはむしろ相手を意固地にし、変化を阻害してしまいがちなのです。

 

 そう考えてみると、合気道もアサーションに似ていると言えるでしょう。つかむ、突いてくるという相手の主張(そう、暴力も主張なのです)に対し、受け手が無理に振りほどいたりはねのけたりするという「攻撃的」な対応をすると、争いが増すだけです。スポーツの試合ではその争いは面白いものですが、現実の暴力や、こころの悩み相手に争いが増すことは、避けるべきでしょう。また、「受け身的」に相手の主張に屈するのも、それは受容や調和にはなりません。それはもちろん、つらく不快で人生を不自由にするものです。

 合気道では、相手も自分も尊重する、相手の気を尊び、調和し、双方が平和に心地よくなる。うーん、アサーションと似ていますよね。そして心理療法においても、悩みや症状、無意識や認知の歪みに対し、合気道のように、アサーションのように応じるほうが、解決に近づいていくのです。

 

 合気道セラピーでは、現実の物理的な攻撃(主張)に対する合気道の対応を、内的、心的イメージからの攻撃(主張)に応用しているものです。外的な攻撃と内的イメージの攻撃の違いは無い、というか、ユングが重視したサトル・ボディのように考えています。外的なものと内的なものを同じように扱ううち、それは入り混じり、その差が無い、あるいは外的と内的、物理とイメージ、の中間的でどちらでもないものが生じます。合気道で外的な攻撃に対する調和やアサーション的な対処を身に着けるうち、内的イメージの攻撃にも同様に調和やアサーション的な対応ができるようになるのではないでしょうか。