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クラスメートの視線が怖い

 

 不登校生がカウンセリングでよくお話してくれる気持ちに、「クラスの子に見られるのが怖い。」「クラスメートの視線が気になる。」といったことがあります。いじめとかトラブルがあって不登校になった場合、その気持ちは当然すぎるのですが、不登校の理由がクラスメートにも学校にもない場合も、このような気持ちになることも多いのです。

 「クラスメートも先生も優しいし登校すると楽しい、でも視線が怖い。」ということがあります。いじめやトラブルが理由であっても、その相手がもういないとか、セラピーでその傷が癒えてきた場合も、久しぶりの登校というだけでクラスメートの視線が怖くなることがよくあります。

 最初の欠席するきっかけが対人トラブルでもこころの悩みでもなく、例えば体調不良でしばらくお休みしてから登校しようとするときにこのような気持ちが出てしまい、不登校になっていくこともあります。

 

 不登校状態ではなく大人の精神疾患においても、視線恐怖という状況があります。(医師の診断的には視線恐怖はとはつかず、広く使われる診断基準のDSM-5では社交不安障害、あるいは限局性恐怖症と診断されますが、クライエントさんやわれわれ臨床家には視線恐怖とか対人恐怖と言うほうが状況が直感的に把握しやすいので、私もまだ使ってしまいがちな言葉です。)不登校生は精神疾患の診断がつく状態ではないことも多いですが、それでも「クラスメートに見られるのが怖くて外出できない。」「教室に戻れない。」と、こころの悩みや疾患が収まってきていても、よく言います。

 

 クラスにトラブル相手やトラウマや悩みがあるなしではなく、どうも久しぶりにクラスに入るというだけで、恐怖や不安が生じるようなのです。

 

 また、個人差がありますが、クラスメート以外の第三者に見られることはそんなに怖がらない例も多いです。遠くへの家族旅行は行けるのに、近所の公園やコンビニには行けないという事例が多いのです。

 

 どうしてそれほど、クラスメートに見られるのが怖いのでしょうか?

 

 ほとんどの場合、恐怖の根底は死の恐怖です。ただそれだと広すぎるので、もう少し検討しましょう。人間にとって、死の恐怖とは、“捕食される恐怖”と“集団から追い出される恐怖”、です。人間の身体と神経系は、食べられることと集団から追放されることを避けるために機能してきました。また、今回のテーマとはあまり関係ないですが、根本的な恐怖として飢え、病気、戦争があります。それらから生き残るためにも身体と神経系は発達してきました。

 

 飢えへの対策が肥満や生活習慣病になるように、病気への備えである免疫系がアレルギーや痛風となるように、現代ではこの生き残るための身体と神経系の備えが、悩みや苦しみ、症状となってしまっているパターンがよくあります。戦いへの備えもそうで、緊張という交感神経優位の状態は殴り合いのような戦闘やダッシュして逃走するには短期的には優位に働きますが、現代人が抱える問題への対処には的外れで、逆に心身の疾患やトラブルになるのです。

 

 視線が怖い、というのも、生き残るため、つまり死なないために、捕食者や仲間の冷たい視線に恐怖を感じるように機能する身体と神経系の対応のためなのです。

 

 捕食者というのは、虎とかライオンなど、自分を襲って食べてしまう存在ですね。肉食動物は、相手をしっかりと見て、相手の状態や距離を測って襲ってきます。猫を飼っている方は、猫がおもちゃを狙うときのことを思い出してみてください。つまり、じっと見られるというのは、狙われていて食べられてしまうという怖れを喚起するのです。

 集団から追い出されるというのも、現代のように文明のシステムが張り巡らされていない時代には、死を意味しました。孤立は即、死につながるのです。つまり集団のメンバーからの冷たい視線、敵意ある視線は、そこから追い出され孤立して死ぬ恐怖なのです。

 

 ここでも、肥満やアレルギーと同様、過剰というか現代には合わない反応が強く出すぎてしまってるのではないでしょうか。クラスメートが自分を見たからといって、死ぬわけではありません。しかし、人間の身体と神経系は、クラスメートから敵意や批判的な目で見られるという状態を、「食われる!」「追放される!」と認識し、非常な恐怖と不安を感じてしまうのでしょう。実際にクラスメートから暴力やいじめを受けていなく、理性つまり大脳前頭前野ではクラスメートは怖くないと思っても、見られるということだけで、死ぬほどの恐怖反応を心身がしている可能性があると思います。遠くに外出できる子の場合、第三者は共同体のメンバーではないと認識しているので、追放恐怖という面ではあまり怖くないと思われます。

 

 その点からも、いじめというのがいかに罪深いこと、つまり人の心身にいかに大きな深い傷を残すかということがわかります。暴力的ないじめは捕食される恐怖になりますし、仲間外れ、シカト、陰口というのも、仲間からの追放=死の恐怖、と同程度の傷となりうるのです。そしてたいていの場合、いじめは捕食恐怖と追放恐怖の両方を味あわせるものになっているのだと思います。

 

 よく、いじめに対し、「クラスが人生のすべてじゃない、転校してもいい、休んでもいい。」と思う方もいらっしゃると思います。確かに大脳の合理的な判断ではそうなのですが、クラスからの追放というのは、不合理ですが、死を感じ取るほどの恐怖になってしまうこともあるのでしょう。もし、近代文明の無い野生で暮らしていて、クラスが唯一の村、共同体だとしたら、そこからの追放は砂漠やサバンナへ一人で放り出されることになるのですからね。

 現代では学校のクラスは唯一の社会ではないのですが、人の心身はその認識が十分にはできていません。現代の合理的で救いもある社会システムに、完全に適応していないのです。

 また、「身体を鍛えたり格闘技や武道をやって強くなればいじめを克服できる。」と思う方もいらっしゃるかもしれません。確かにそれで周囲から一目置かれる場合もありますが、それでも追放恐怖にはあまり効果がないと思います。実際、腕力があったりスポーツができる子もいじめられたり、視線恐怖になる事例もたくさんあります。

 

 そこで、不登校状態からクラス復帰するにせよ、別の居場所に行くにせよ、お休みし続けるにせよ、その子らしさを取り戻し活き活きと生きていくには、捕食される恐怖と追放される恐怖をゆるめなければなりません。合理的な説得だけではなかなか恐怖がゆるまないように、「クラスメートはみんな歓迎しているよ。」とか「フリースクールもあるよ。」とか、「学校には行かなくてもいいんだよ。」と言っても恐怖感情に届かないことがあるのです。

 

 素早く確実に恐怖をゆるめる方法というのは、まだありません。生きる勇気、心身の余裕、自分は周囲とうまくやれる自信、誰かに愛されているという愛情・愛着への確信、といったものが必要なのだと思います。

 心理療法やカウンセリングでもこれはなかなか難しいものです。私は武道を取り入れた心理療法を行っているので、いっそう恐怖感情が人の悩みとして重要であると感じているのかもしれませんが、これからも不登校やその他の心理的な悩みに対し、恐怖をゆるめる=勇気や余裕、愛情、愛着、共同体感覚を取り戻せるよう、工夫していきたいと思います。恐怖をあつかう武道・武術をベースにした合気道セラピーは、大きな可能性があると思うのです。

 

*(上に腕力や格闘技、武道は恐怖に効果がないと言いましたが、自信をつけることで「自分らしくいてもよいのだ。」といった自信がつくと、追放恐怖を乗り越える場合もあります。)

 

*(周囲とうまくやるのではなく、「一人でも大丈夫。」という自信も捕食や追放恐怖を軽減させることもあります。しかしそのためには、より大きな共同体や人類、自然、世界、歴史、神や仏などと自分がつながっているという感覚が必要だと思います。そのベースには愛情・愛着があるのだと思います。)