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感動するのに“特別”は必要ない

 オリンピックが始まりますね。

 スポーツ、特にオリンピックというのは、“特別”な才能に恵まれた人が、“特別”なトレーニングをして、“特別”な場所で、“特別”な結果を出す、という構成であります。

 そして、それに観客や視聴者が熱狂するというのもその構成の一部でしょう。

 

 しかし、私は多くのクライエントさんと接していると、市井の人々のこころの成長や癒されていく力も、金メダル以上に価値があり感動的だと感じさせられます。

 

 そして、“特別”なことに感動するだけではなく、日常のふとした瞬間に感動することがとても大切であると感じています。日が昇ること、頬に感じる風、心臓の鼓動、川が流れていること、鳥が飛ぶこと、犬や猫の可愛さ、自分がこの場所に今生きていること…。こういった“普通”にあるものに感動することも、とてもとても素晴らしいことのように思えるのです。

 

 特別な才能に恵まれた人がその力を十分に育て上げ、ライバルたちを負かすことも自己実現の一つの形ですが、あまりこれが強調されると、日常の感動に意識が閉ざされてしまう気がします。

 

 また、熱狂ではない、静かな感動というものももっと評価すべきでしょう。集団で熱狂するというのは、お祭りという、やはり“特別”な、非日常な時空間です。しかし、一人、あるいは心許せる家族や友人数人程度でなければ、ささいなこころの動きを見逃してしまうと思います。日常のあるいは普通の事物に対して、こころを開いて静かに感動するという体験を、熱狂以上に大切にすべきだと感じます。

 

 ただし、日常の感動が特別な感動に勝る、と考えてしまうと、それはそれで執着やひねくれにつながってやっかいですので、同じくらいの価値であるという姿勢でいられるとよいと思っています。

 また、オリンピックやスポーツを観て生きる力をもらう人もいるでしょう。小説や音楽や映画、舞台といった芸術も、学問や技術も“特別”な才能や練習による構成になっているので、文化自体がそのような“特別”に支えられているのかもしれませんね。武道もときにそうなります。

 

 しかし、人の意識が現状は“特別”への感動の傾向が強すぎるのではないかと思います。また“特別”を求めて依存・中毒的にならないよう、日常の感動をもっと評価してもよいのではないかと思っています。

 

 スピリチュアリティについても、超常現象や超能力について驚いたり畏怖の念や憧れを抱くのではなく、日常のスピリチュアリティについてこころを向けたいと思っています。