新型コロナウイルスの自宅療養で、40代のお母さんや妊婦さんが搬送されず新生児が亡くなったりという、悲劇、という言葉でさえ言い切れない状況が伝わっています。昨年、数か月前、諸外国で見られた光景がついに日本でも起きてしまっています。
生命について、あらためて考え向き合わざるをえない思いです。
まず、心理士(師)として、何よりも命が大切ということを深く感じます。医師や看護師はじめ医療従事者と同じです。こころや文化、思想を重んじる人のなかには、命より精神が大事と考えている人もいます。しかし、心理療法家としては、まずは命を大切に、と思うのです。癒しや成長はまず命あってのものです。なんとか生きてくれ、まずは生きてくれ、命さえ残っていれば、そのあと、セラピーはできる、いやセラピーがなくとも、人のこころは治り成長してゆける、と、こころの強さを信じたいのです。
吉川英治『宮本武蔵』で、沢庵和尚が「生命は珠よ。」と言います。
「生命は、惜しみいたわって珠とも抱き、そして真の死所を得ることが、真の人間というものじゃ。」
私も、最近この言葉をふと思い出すことが増えています。
「生命は珠よ。」
その、一人に一つ与えられた珠を磨く前に亡くなってしまうなど、自分も、自分の大切な人も、そして見知らぬ人でも、あってよいこととは思えません。大切な愛しい珠を磨く前に落として割ってしまうようなものです。
そして、その珠は、今現在多くの人とつながっているもの、そして多くの人から支えられるものであると同時に、過去からつながれてきた、引き継がれてきたもの、そして未来につないでいくものだということを深く感じます。
三密回避、自粛で、私も人と会う機会や集まる機会を減らしています。それは確かに不快なこと、嫌なことですが、そのせいか、かえって、自分の生命が自分の家族、親戚、祖先たちから支えられてきたものだと深く感じるようになったのです。
最初は自然にふとそう感じるようになっていたのですが、分析してみると、三密回避や自粛は、今生きて関わっている人たち、つまり空間軸、横のつながりを減らしてしまったのだと思います。そしてそれが減った分、縦のつながり、つまり時間軸を強く意識するようになったのではないかと思うのです。
人は、今同時に生きている人との関係のみで自分を維持しているわけではないのです。友だちと会えなくてさびしい、というのはその通りですが、そんな孤独な自分も、過去にだれかから支えられ、将来誰かを支え、何かを残していく、その縦軸のかかわりの要素は消えていないし、かえってより強く意識できるのではないでしょうか。
ただ、そう感じられるのは、私が親や親戚からの愛情や的確なしつけ、金銭的支援をきちんと受けてきたからかもしれません。実際には親や親戚には問題も多々あり、特に若いころは反発も強くありましたので、そう単純ではないのですが、確かにひどい親たちではありませんでした。
そう考えると、今の自分の良い面(ある程度の収入や学歴、充実した仕事、研究への熱意など)は自分の努力で得たのではなく、祖先からのつながりによって偶然手に入ったものだと感じます。
そう感じると、より一層自分の生命が大切に思えてきます。そしてほかの人の生命も大事に感じます。願わくば新型コロナなどに感染してほしくない、他の病気にも怪我にも苦しめられることなく、老衰で穏やかに最期を迎えて欲しい。自分も将来に残していく仕事を成すまで、健康でいたい、と強く思います。
これは、生命の珠を磨ききるまで死にたくない、他の人にも死んでほしくないということなのでしょう。
たとえ、親からの愛や理解を得られなかった人も、友人や恋人に恵まれなかった人も、経済的に苦しい人も、自分の生命の珠を磨くことができるのかもしれません。
いや、そう考えると、新型コロナにかかってしまっても、病気や怪我で苦しんでいても、若くして死ななくてはいけなくても、珠を磨くことはできるのかもしれません。
明確な答えは出せません。でも、私も、親族も、師匠も、友人も、クライエントさんも、赤の他人も、自然に死ぬその瞬間まで生命の珠を抱いて磨いて、生きていけることができるとよいのだろうなぁとは思っています。
文献
吉川英治 『宮本武蔵(一)』 講談社