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子どもや若者をほめるときにはー煉獄杏寿郎とサンデル教授ー

 カウンセリングや心理療法では、カウンセラーやセラピストがクライエントをほめることはよくないという考えがあります。ほめることはセラピストの中立性を逸脱してしまうということ、ほめる・ほめられることで(共)依存的になってしまうこと、クライエントが悪い点や醜い点といった本音や事実を言いにくくなること、社会や現実の通俗的な価値観をセラピーに持ち込んでしまうこと、といった弊害があると考えられます。

 私も箱庭療法やマインドフルネスのように、治す、治そうという意識や意図的な態度を控える療法のときは、あまりほめることはしません。

 

 しかし、短期間で関係を築くときやトレーニング的な要素がある療法を採用する際には、クライエントさんをほめることは必要です。また、人として自然な感情でほめることも、決してセラピーの進展に悪影響はないと思っています。

 特に、子どもや若者とのかかわりでは、適切にほめることは必須でしょう。上記した弊害のなかに、社会や現実の価値観を持ち込んでしまうのはよくないと書きましたが、子ども若者は、現実ではあまりほめられないというのが実情だからです。

 

 私はほめるときのこころがまえとして、嘘はつかない、未来の可能性についてほめる、通俗的な価値観ではなくても認める、役割を果たすよううながす、という4点を意識しています。

 

 嘘はつかないというのは、その子の実際にある、または私が感じた長所や特性や個性、能力についてほめるということです。強さのない子に、きみは強い、とはほめません。ただし、クローズアップはします。ちょっとした強い言動をとった際に、そこに焦点を当ててほめます。オーバーにするというより、クローズアップするという感じです。

 

 未来の可能性についてほめる、というのは、今はささいなものであっても、それを育てていけばすばらしくなる、というほめ方です。上記したように、ちょっとした言動をクロースアップしますので、その時点ではあまり活かされていない要素かもしれません。またその時点で十分活かされているものでも、将来は社会的に認められ人の役に立つようになると伝えます。

 

 通俗的な価値観ではなくても認める、というのは、先に書いた弊害をカバーするものです。カウンセリングやセラピーでは、極力社会的な価値観、特に学校的な価値観を持ち込みません。例えば、不登校も悪いこととは考えず、その子の考えや行動次第ではほめる要素はたくさんあります。また、屁理屈屋として学校では疎まれている子の場合も、思考力があるとほめます。片付けが苦手な子については、興味ややりたいことが多すぎてパワフルで素早いから片付けている暇なんかないよね、とほめます。

 もちろん、いじめや犯罪まがいの人を傷つけたりする要素についてはほめません。それでもその子の未来の可能性についてはほめる要素を探します。

 

 そして最後の、役割を果たすよううながす、というのが、今回の本題です。子どもや若者をほめることとは、その人の存在を認めたり、自己肯定感や自己効力感、セルフ・コンパッション(自分への慈悲)を高めたりというだけではありません。

 それは、役割を果たすよううながすことでもあるのです。

 

 君は賢い、だから、その力を世のため人のために使わなくてはならない。

 

 君はやさしい、だから、その力を世のため人のために使わなくてはならない。

 

 君は強い。だから、その力を世のため人のために使わなくてはならない。

 

 これはどうも、人をほめるときにはこのことは必須ではないかと思うようになりました。自己肯定感や自己効力感、セルフ・コンパッションは、社会で認められる、役割を果たすことができるという点と重なって、さらに確かなものになるからです。自分がすごい、というだけでなく、みんなの役に立てるというのは、さらに自己肯定感等を強固にするでしょう。

 

 また、人から認められるとうれしい、という自然な感情は、気を付ける点があります。その“人” というのが、犯罪組織のボスであったら、犯罪がほめられる行為になるからです。テロリストや組織犯罪の構成員はそうなっているでしょう。そこで、認められ役に立つ相手として、社会全体(それを世、人と呼ぶ)ということをしっかりと伝えます。

 

 私は子ども若者とのカウンセリングにおいて、自然に、なんとなくこの両者、個人の個性や長所と世のため人のため、を並列させていたのですが、このほめかたの背後にある哲学として、人の長所や才能、今持っている資源は、意図的な努力だけでなく、遺伝子と周囲の環境、つまり(東洋風に言うと)ご縁、で作られたもので与えられたものであるので、幸運によるものだ、という人間観、世界観があるようです。

 才能や長所は、たまたまその人に与えられたものだから、自分の利益だけに使ってはならない、というものです。西洋でいうノブレス・オブリージュという考え方に近いものです。ただしノブレス・オブリージュは偶然高貴になれたという要素がなくても成立するようですが。

 

 大ヒットマンガ、アニメの『鬼滅の刃』での炎柱、煉獄杏寿郎の母が、まさしくこのようなほめかたをしています。

 

「 なぜ自分が人より強く生まれたのかわかりますか」

 

「 弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者はその力を世のため人のために使わねばなりません。」

 

「天から賜りし力で人を傷つけること私腹を肥やすことは許されません」

 

「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決してわすれることなきように」

 

 

 煉獄杏寿郎の母は、ただ世のため人のために尽くすよう説教しているのではなく、重ねて「強く優しい子の母になれて幸せでした」「立派にできましたよ」と愛し、認め、ほめているのです。

 

 煉獄杏寿郎はこの通りの生き方をし、世のため人のため心を燃やし、人をほめて認めます。若い未熟な炭治郎たちに叱咤ではなく、ほめて認めるメッセージを伝えます。

 

 この煉獄杏寿郎とその母親の言動は、少年マンガであり鬼との戦いがテーマの作品だから“強さ”で表され、また腕力の強い子がいじめや暴力で利益を得ることをいましめる言葉として理解しやすいのですが、強さでなくても同様だと私は思います。上記した母親のセリフを、賢さ、運動神経、数学の才能、絵の才能、努力できる才能、親の財力、等々に置き換えても成立します。

 とくに、現代社会では腕力ではなく、知的能力や学力が強さになります。それらによって私腹を肥やす機会が増えることになるので、母のセリフの“才”や“強く”には、学歴や親の財力を入れたほうがリアルでしょう。

 腕力が強いものが弱いものをいじめてはいけないというのは『鬼滅の刃』に限らず言われてきたことですが、知的能力や学力についても同様、いや文明社会では腕力以上に強者であるという点を忘れがちですね。優しさ、勤勉、人付き合いがうまい、ポジティブシンキングができる、好奇心旺盛、といった特性、個性も、世のため人のために使って始めて完結するように思います。

 

 「きみはやさしいね。そのやさしさで世のため人のため役立つことができるよ。」というのは、ただ「きみはやさしいね。」というだけよりも、自己肯定感が高まるように思います。煉獄杏寿郎も、母から強いと認められることと同時に世のため人のためを合わせて教えられたことで、すばらしい生き方ができたのでしょう。

 

 さて、近年、才能や学歴や努力でお金持ちになった人も、そのお金を独り占めしてはならないというモラルが提唱されています。行き過ぎた新自由主義の反省から強調されるようになったのでしょう。

 腕力が強いものが乱暴するのはだめなのはわかりますが、努力で得たものも自分一人の手柄として利益を得てはいけないのでしょうか?

 納得いかない人も多いと思いますが、努力も学歴も、偶然その人に与えられたもので、その才能が活かされる社会であるのも偶然だという考え方です。努力できるかどうかも遺伝子や環境で決まるし、その才能を活かせる社会科どうかはその人個人とは関係なく幸運に左右されます。

 たとえば、サッカーの天才でも、サッカーという競技が高く評価されない社会だったら、年俸数億円などというお金はもらえないわけです。江戸時代にサッカーの才能をもって生まれてきても、今のような地位と名誉と利益はもらえないですよね。同様に現代でも内戦の激しい戦闘エリアに生まれたら、サッカーの才能は活かすことはできないでしょう。

 

 ハーバード大学の授業で有名な、マイクル・サンデル教授が「能力主義」に反対し、

 

「われわれはどれほど頑張ったとしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと。才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。」

 

 と言います。努力や実力を重視しその成果は自分の手柄だとしてしまうのは、幸運や偶然を無視している点で事実とは異なるし、また謙虚さや思いやりや感謝を失ってしまうのでしょう。

 

 私はそれに加え、書いてきたように、自分の長所や才能は世のため人のために使ってこそ、という思想がないと、自己肯定感や自己効力感、セルフ・コンパッションも結局のところ確立しないと思っています。

 

 子ども若者をほめる際には、その効果を高めるためにも、その長所で社会に役立てると伝えていきましょう。

 

 

(文献)

吾峠呼世晴  『鬼滅の刃』8巻  集英社

マイケル・サンデル  『実力も運のうち 能力主義は正義か?』  早川書房