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武道の段位についての私見(心理資格についても一言)

 合気道をはじめ、日本の武道(他の芸道にも)の多くには級、そして段という達成度の段階、あるいはランクがあります。

 これは江戸期にはありませんでした。段階やランクとしてあったのは、目録、免許、師範代、塾頭、くらいでしょうか。江戸期でも囲碁将棋にはあったそうで、武道においては、講道館柔道を立ち上げた嘉納治五郎先生がその囲碁将棋から取り入れたことから始まりました。

 現代でも、中国武術には級や段位はないものが多いようです。

 

 さて、合気道においては、この段位というものがあまりあてにならないことも多いです。あてにならないというのは、高段位者が強くない、というような単純なものではありません。

 高段位者は、確かに長い期間稽古してきて、技がちゃんとできて派手に飛んで受け身がとれたりします。

 しかし、合気道そのものの理解や身体運用、気の運用、天地大自然との調和、に深い理解があり実践ができているとはかぎらない、ということです。それらは私の所属している道場では、「中身の実力」と言っています。「中身の実力」に関しては、高段位者でも習得していないケースもあるようです。もちろん、長い期間の稽古と派手な動きができることも十分尊敬に値します。だから、そういう方に段位を与えることは、問題はないでしょう。しかし、高段位の人が合気道の深い理解と実践できていると勘違いしがちなのが、明治以降の段位制の弊害でもあるようです。

 

 私は、段位というものは、看板の役割だと思っています。

 

 看板はきれいでわかりやすくなければなりません。簡潔であることが大切です。

 たとえば、幹線道路に出す看板にごちゃごちゃと詳しい説明が書いてあっても、ドライバーは読めませんね。そこで、たとえばラーメン屋さんであれば「本格さっぽろラーメン 〇〇信号左折」などと書くのです。「店主は10年間札幌の老舗ラーメン店で修業し、その味を完全に再現することができると同時に自分の工夫を加えました。素材も吟味し、東京にいながら札幌本店に勝るとも劣らぬ味噌ラーメンを提供できる店をこの先100メートル先の〇〇信号の交差点を左折したところで開いています。」などと看板には書きません。

 

 私の合氣道(注)の段位でいうと参段(三段)をいただいています。それは、

 

「私は15年稽古をしてきて、多くの基本的な型の動きを覚えました。また気を出すことや相手の気と調和して受けと投げができるようになりました。そして自分の身体の軸や丹田が確立してきました。さらに、合気道の哲学を理解し、天地大宇宙の気と一体化し調和するという感覚が出てきました。自分より経験の浅い弟(妹)弟子たちに簡単な指導することができます。しかし道場長や過去の達人たちとは比べるのもおこがましい未熟者であり、今後向上する余地がおおいにあります。」

 

 という内容を、一言で表すのが「合氣道参段」という看板なのです。

(注)自分学んだ道場について書くときは「氣」の字を使い、一般的な合気道について書くときは「気」と表記します。

 

 上記した説明を、合気道や武道に理解のある方に話せば、(お世辞半分で)「おお、いいですね。」と言ってもらえるかもしれません。しかし「合氣道参段です。」と言えば、その一言で「おお、いいですね。」と同様の反応をしてもらえることでしょう。繰り返しますが、看板は簡潔にわかりやすく、です。

 

 さて、臨床心理士や公認心理師の資格についても、ほぼ同じようなことが言えるのではないでしょうか。無資格でも凄腕の心理カウンセラーもいるとは思います。しかし、その実力は、実際に受けてみてしばらく通ってみないとわからないのです。そして、信用できる割合からすると、無資格の実力者に出会う可能性は低いと言ってよいでしょう。

 臨床心理士や公認心理師のような国家資格や広く認識された資格というのは、その一言で実力や信頼性を語るのです。医師や弁護士等のような業務独占や名称独占(心理やカウンセラーという単語は誰で名乗れます)がない心理療法やカウンセリングは、やはりわかりやすい看板である上記ふたつの資格のあるカウンセラーを選ぶ必要があると思います。

 しかし看板だけが立派で美しくても、さほどおいしくない料理屋があるように、資格が立派でもクライエントさんのお役に立てない場合もあるので、それはもう、何とも申し訳ないというか…。

 

 看板を手に入れたらなにもしなくてよいわけではなく、その看板に恥じないよう精進していかなければならないのは、武道も心理カウンセリングの資格も、同様でしょう。