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対人不安、対人恐怖の合気道セラピー

 対人不安、あるいは対人恐怖は、現在の精神医学の診断では「社交不安症」と言われます。しかし、よく聞く対人不安や対人恐怖と表現するほうが、文字通りとらえやすく直観的に把握できる気がしますので、このブログでは「対人不安」、あるいは「対人恐怖」とします。

(なお、「恐怖」と「不安」の違いは、前者がはっきりとした対象に直面した時急速に高まる怯え、後者はばくぜんとした対象に予期的かつ持続的に抱くものです。『実践家のための認知行動療法テクニックガイド』より

 

 対人不安の背後には、人から、社会から、嫌われたくない、という思いと、恥をかきたくない、という心理があるようです。

 少し前、アドラー心理学を基にした『嫌われる勇気』という本が大ベストセラーになりました。嫌われる勇気があれば、対人不安もなくなりそうですが、なかなかその勇気は持てませんね。

 

 なぜ嫌われることが怖いのか?

 どうも、嫌われることを怖れる背景には、神経系の働きがあるようなのです。つまり生物学的に人間に備わった機能のようなのです。

 これまたベストセラーの本『スマホ脳』に、「人間の進化の過程で「共同体から追い出されないこと」が何よりも重要だった」とあります。昔の人類(サバンナや密林、砂漠で細々と暮らしていた)は共同体から追い出されたら、死を意味しました。そのため他者の評判を気し恐怖する遺伝子が残っているというのです。

 

 失敗する、恥をかく=集団での評価が下がるかも=嫌われるかも=追放されるかも=死ぬ!

 

 と思考し、恥をかくことが死に近いほどの強い恐怖となるのです。また、実際に失敗や嫌われることをしなくても、悪い噂が立つだけで、嫌われ追放されるかもしれません。噂や陰口も、死の恐怖と同じくらいの強い恐怖を感じることも不自然ではないのです。

 現代は学校のクラスや職場から追放されても死ぬ可能性は低いと思いますが、それは大脳の理性的な部分でそう思っていますので、理性・大脳と、感情・古い神経系との葛藤を現代人は抱えるのです。

 逆に、友達が多いとか、スクールカーストやマウント上位にいるとか、フォロアーが多い、などという状態にわれわれが快感を感じるのは、生存可能性が高まることになるので、その状態に快感物質が脳内に出るようになっているようなのです。

 

 自分に危害を加えようとしてくる「敵」が怖いのは当然です。相手の態度や視線などの雰囲気から、自分の敵かどうか、びくびくと見定めようとします。恐怖を感じると、神経系は「戦うか逃げるか反応」を起こし、興奮をつかさどる交感神経系がフル動員されます。

 そして、外敵だけでなく、「仲間から悪く思われる、嫌われる」というのも、追放という死が迫ってきますので、敵に対する警戒のように、仲間からの評価や評判、自分がどう思われているかを心配し、仲間の態度や視線などの雰囲気から、嫌われていないかびくびくと見定めようとします。そうすると交感神経が活動してしまうのです。

 

 以上のように、対人不安や対人恐怖には身体もかかわっているため、考えを変える努力をするだけではなかなか対処が難しいでしょう。

 現代社会において、過度な恐怖や不安は、生活の質を落とし悩みや苦しみになります。神経系が何億年もかけて進化させてきた恐怖への対応は、実は効果的でない場面も多いのです。

 

 さて、そもそも、武道・武術というのは、(対人)恐怖を乗り越えるためのものです。戦いにおいて、恐怖に固まり視界をせばめる状態はかえって死を招きます。多くの武道・武術の稽古は、恐怖下においても古い神経系にのっとられず、心身を柔軟に保つための知恵なのです。

 

 柔軟な状態というのは、恐怖や不安とは正反対の状態です。ポリヴェーガル理論という神経系の理論によると、リラックスをつかさどる神経系は、対人コミュニケーションをとることに喜びを感じるという社会性もつかさどっているそうです。また表情筋も動きやすくなるそうです。リラックス状態が他者に温かさを感じる神経や表情の豊かさとつながっているというのも、興味深いですね。

 対人恐怖や不安の方は、人に対しいつも弱気でおびえているわけではありません。むしろ強く出すぎることもあるのです。怖いからこそ、他者からの攻撃を気にし、「素早く、最初に、先手必勝!」

「なぐってきたらつかんでやる!」「なぐり返す!」「なめられないよう威嚇しておく!」と、いつもぴりぴりしています。これは表情豊かにコミュニケーションするという状態からはほど遠いですね。

 その強気は弱気の裏返しなので、場にそぐわず過剰だったり、後から後悔したり、無理にエネルギーを出すことで疲労したりしています

 

 合気道では、他の武道・武術と比べても、柔軟性と他者と楽しく温かくかかわることを理想とし目標としている武道です。攻撃してくる相手を受け入れ、柔軟に調和する体験をすることで、身体から対人恐怖の神経系をなだめていきます投げられるほう(受け)も、負けた、というわけではなく、調和の内にととのいながら投げられていきます。そして、投げと受けは交代しますので、上位者が投げてばかりいるわけではないのです。争いがない武道なので、対立の緊張はありません。投げも受けも楽しく調和、和合することが目的です。(開祖植芝盛平翁は、神経系の動きを直観的に知っていたのでしょうか?)

 

 また、恐怖や不安が強くなってしまう背景には森田療法でいう「とらわれ」や「精神交互作用」という心理的なしくみがありそうです。ちょっとした緊張で心臓がどきどきしたり、呼吸が早くなったりしたときに、それを感じて気になってしまい、気にあるとますます緊張して、さらにどきどきが増し、どんどん怖くなるという展開です。

 では、その感覚の変化を無視すれば緊張は増していかないのかというと、そうはうまくいきません。無視しようとすると、かえって意識が向くという矛盾が人間の認知にはあるのです。

 

「このどきどきを無視しよう。」→「このどきどきを無視しよう。」→「このどきどきを…」→「このどきどき…」→「どきどきしてる!」

 

 となってしまうのです。そしてパワーアップした緊張にとらわれ、「逃げなきゃ!」「どきどきおさえなきゃ!」「どきどき消えてなくなれ!」などと、どきどきと対処法で頭がいっぱい(とらわれ)になってしまうのです。

 身体の変化だけでなく、ネガティブな考えや感情でも同じです。「ダメと思うな!」「この悲しみを消す!」「さびしいなんて感じてない!」となると、同じ悪循環パターンにおちいります。

 

「さびしいと思うな!」→「さびしいと。」→「さびしい…。」

 

 こころに浮かんだささいな変化に対しては、気にしても、無視しようとしても、否定しても、攻撃しても、うまくいきません。森田療法では、そのような変化は当然なので「とらわれず」、「あるがまま」にしておけ、と言います。もちろんそう助言されてもすぐにはできないので、森田療法では作業をしたり日記をつけたり、もちろんセラピストと話し合ったりして、「あるがまま」になれるよう練習していきます。

 

 合気道においても、打ってくるこぶしや手刀、つかまれたところやその圧を、見ない、とらわれない、ようにします。やってみるとすぐわかるのですが、相手の攻撃や自分の一部に意識をもっていくと、身体バランスが崩れますし、固くなります。相手の攻撃はそのまま、あるがまま、目の片隅くらいで見ておいて、身体全体で動いて技をすれば、おのずから攻撃をさばけるのです。

  合気道セラピーではこのような体験を繰り返しすることで、とらわれて問題を増大させる悪循環から自由になります。対人不安においても、他人を意識しすぎてかえって怖さが増し、他人や自分の不安や恐怖反応にとらわれておびえたり不自然な態度になる悪循環から自由になっていきます。

 

 合気道セラピーでは、身体的な神経系からも、森田療法のいう「とらわれ」「精神交互作用」という心理的な機能からも、それら両面から対人不安や恐怖にアプローチできると考えています。

 頭では怖がらなくてよいと思っているのに、身体がどうしても固まってしまったり心臓がどきどきしたりする方、考えるほどに不安や怖さが増しているような方は、ぜひ合気道セラピーを受けてみてください。

(文献)

アンデシュ・ハンセン(著) 久山葉子(訳) 『スマホ脳』新潮社

岸見一郎・古賀史健(著)『嫌われる勇気』ダイヤモンド社

坂野雄二(監修) 鈴木伸一・神村栄一(著)『実践家のための認知行動療法テクニックガイド』北大路書房