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苦しんだ人はよいカウンセラーになれるのか?-「苦難=試練論」をこえて-

 令和5年(2023年)最初のブログは、自分を振り返る意味でも、表題のようなテーマにしました。

 さて、タイトル通り、苦しんだ人はよいカウンセラーになれるのか?です。確かに、あまり苦しんだことがなく順風満帆な人生を送ってきた人が、他者の苦しみに理解し共感し、寄り添っていく仕事をすることは難しいでしょう。クライエントさんも、そのようなカウンセラーに話を聞いてもらいたいとは思わないでしょう。(もっとも、苦しみや悩みが起こらない人生なんてありえません。苦しんだことがない人というのは、正確に言うと、問題や苦難を常に他人のせいにしてきた人、深く考えてこなかった人、と言えるでしょう。)

 巷のカウンセラーの中には、自分がかつて苦しんできたことをアピールしている方も多いようです。大学教授やかなり名の知れたベテランのカウンセラーでも、そのことを強く主張する人もいます。ユングも‘Wounded Healer’(傷ついた癒し手)という概念を述べています。

 

 自分が傷ついたからこそ、クライエントさんの理解ができ共感できる、心の傷や悩みについてよくわかる、カウンセリングがうまくできる、というのは、確かにありそうです。しかし、傷つき苦しんだ方がカウンセラーになるには、いくつか乗りこえるべき壁があります。

 今回は二つ取り上げます。

 

 一つは、カウンセラーは自分自身がかつて、あるいは今現在、どんなに苦しい経験をしていたとしても、安定したメンタルを持たなくてはならないということです。クライエントさんの話を聞いて共感するのはよいのですが、一緒に崩れてしまっては元も子もありません。また、自分とクライエントさんを同一視してはいけません。この手のカウンセラーは、自分の理論でのみクライエントさんを理解しようとしたり、自分と同じ方法でのみクライエントさんを治そうとします。

 この状態から脱するには、自分の苦難をかなりの程度で癒し回復している必要があるのです。これが第一の壁です。この壁を乗り越えるには、まず自分がカウンセリングを受けることや先輩カウンセラーから教育分析を受けることが有効でしょう。色々な本を読むこと、色々な理論を学ぶこと、色々な人の話を聞くこと、も大切です。

 

 自分の悩みをかなり解消しているカウンセラーにも、次の段階の問題点が立ちふさがります。

 それは、自己愛、ナルシシズム、の問題です。「自分は過去の悩みを解決した、‘一段高い人間’だ。」などと空想してしまうのです。そして、「カウンセラーという仕事が天命である。」「そういう仕事をしている自分は崇高な存在だ。」などと、自分自身やカウンセリングに変な理想を投影してしまうのです。

 

 私は、このような偏狭な自己愛の背景に「苦難=試練」ととらえる思想があるように思います。

 この「苦難=試練論」にはまったカウンセラーは、よく、「悩みや苦難は人を成長させる。」「苦しむ人は正直さや繊細さなど、他に人にはない長所がある。」「苦難は深層(あるいは天上)からのメッセージである。」という言い方をします。宗教家も同じようなことを言うことが多いですね。

 この発想はとても大切ですし、事実でもあると思います。「苦難=試練論」は、人が苦しみに耐え成長していくときに支えとなります。苦しみに意味を与えないとつらくて耐えきれないこともあるでしょう。実際、苦難の後に素晴らしい人格を備えることはとても多いでしょう。

 しかし一方で、この論は、「自分は選ばれた人間である。」「自分のカウンセリングはそんじょそこらのカウンセリングとは違う。」「自分のカウンセリングこそ至高。」「どんな疾患も治せる。」などという自分勝手なナルシストになってしまう恐れもあるのです。このような独善的なカウンセラーは、自分独自の方法や理論を振りかざし、それを他者と検討したりすることもなく、反対者や理解しない人を攻撃します。クライエントさんに対してすら、「自分のやり方についてこれないなんて、この人が悪い。」などと判断してしまうのです。カルト宗教の信者にも、この「試練を乗りこえた自分(たち)は特別」という偏狭な自己愛は強いようです。

 

 この独善的な自己愛を乗りこえるには、やはり教育分析を続けていくことが最もよいと思いますが、発想の転換も必要でしょう。

 私は「苦難=試練論」を広げていく必要があると思います。苦しんだ人は、自分の苦しみがこの世で最も苦しいと感じています。そして、それが癒されると、自分が最も崇高な人間だ、とも感じがちなのです。そして、他の人間をたいして苦しんでいない、低い(浅い)人間だ、などと、他者を低く見ていしまいがちです。これが「苦難=試練論」の問題点だと思います。

 ここで自己愛に陥らないためには、自分の苦しみは世界中全ての人も感じるものだ、という発想の転換ではないでしょうか。自分や自分の理論についてきた人だけが偉大なのではなく、人はみんな苦しみを抱き、試練をもって生きているという思いです。自分から見て能天気でちゃらちゃら生きている人も、それは表面であって、誰もが苦しみを抱えている、または、今は能天気であっても、過去、あるいはこれから、生きていくうちには必ず苦しみと出会う、ということです。そして、どんな人でもそれを克服し成長する力がある、ということを信じる、ということです。

 

 近年カウンセリングでも取り上げられるセルフ・コンパッション(自分への思いやり、慈しみ)がこれに近いのかもしれません。セルフ・コンパッションが自己愛や自己憐憫と異なるのは、「共通の人間性」つまり「自分だけが苦しい経験をするのでなく、誰もが苦しんでいる、生きている限りこの苦しみは人間に共通のものだ。」という要素です。

 

 これは実は「苦難=試練論」には、認めがたい発想でもあるのです。「自分は苦しんで、それを乗りこえたから偉い。」と思わず、「自分以外も、苦しんでいないように見える人だって、自分と同じように偉い。」逆に言うと、「自分の苦しみは特別のものじゃない、みんなと同じだ。」と認めることになるからです。自分の特別感を減らすことになります。

 

 しかし、この発想を感じ偏狭な自己愛を克服することができてはじめて、苦しみを乗りこえた人がよいカウンセラーになれるのだと思います。自己愛から人類愛に、という発展が求められるのだと思います。自分のすばらしさは全人類がもっている、逆に、人類の弱さを自分ももっている、という感覚は、愛や希望、喜びに加え、人間のかなしさと切なさ、を強く深く感じることになるでしょう。

 

 最後に私の好きな映画のセリフをご紹介します。

 

 「人間はみんな、その、悲しいんですから。」

 

 小泉堯史(監督)黒澤明(脚本)寺尾聡(主演)山本周五郎(原作)「雨あがる」 東宝