文化論、心身論、書評

文化論、心身論、書評 · 26日 9月 2021
 カウンセリングや心理療法では、カウンセラーやセラピストがクライエントをほめることはよくないという考えがあります。ほめることはセラピストの中立性を逸脱してしまうということ、ほめる・ほめられることで(共)依存的になってしまうこと、クライエントが悪い点や醜い点といった本音や事実を言いにくくなること、社会や現実の通俗的な価値観をセラピーに持ち込んでしまうこと、といった弊害があると考えられます。  私も箱庭療法やマインドフルネスのように、治す、治そうという意識や意図的な態度を控える療法のときは、あまりほめることはしません。  しかし、短期間で関係を築くときやトレーニング的な要素がある療法を採用する際には、クライエントさんをほめることは必要です。また、人として自然な感情でほめることも、決してセラピーの進展に悪影響はないと思っています。  特に、子どもや若者とのかかわりでは、適切にほめることは必須でしょう。上記した弊害のなかに、社会や現実の価値観を持ち込んでしまうのはよくないと書きましたが、子ども若者は、現実ではあまりほめられないというのが実情だからです。  私はほめるときのこころがまえとして、嘘はつかない、未来の可能性についてほめる、通俗的な価値観ではなくても認める、役割を果たすよううながす、という4点を意識しています。  嘘はつかない、というのは、その子の実際にある、または私が感じた長所や特性や個性、能力についてほめるということです。強さのない子に、きみは強い、とはほめません。ただし、クローズアップはします。ちょっとした強い言動をとった際に、そこに焦点を当ててほめます。オーバーにするというより、クローズアップするという感じです。  未来の可能性についてほめる、というのは、今はささいなものであっても、それを育てていけばすばらしくなる、というほめ方です。上記したように、ちょっとした言動をクロースアップしますので、その時点ではあまり活かされていない要素かもしれません。またその時点で十分活かされているものでも、将来は社会的に認められ人の役に立つようになると伝えます。  通俗的な価値観ではなくても認める、というのは、先に書いた弊害をカバーするものです。カウンセリングやセラピーでは、極力社会的な価値観、特に学校的な価値観を持ち込みません。例えば、不登校も悪いこととは考えず、その子の考えや行動次第ではほめる要素はたくさんあります。また、屁理屈屋として学校では疎まれている子の場合も、思考力があるとほめます。片付けが苦手な子については、興味ややりたいことが多すぎてパワフルで素早いから片付けている暇なんかないよね、とほめます。  もちろん、いじめや犯罪まがいの人を傷つけたりする要素についてはほめません。それでもその子の未来の可能性についてはほめる要素を探します。  そして最後の、役割を果たすよううながす、というのが、今回の本題です。子どもや若者をほめることとは、その人の存在を認めたり、自己肯定感や自己効力感、セルフ・コンパッション(自分への慈悲)を高めたりというだけではありません。  それは、役割を果たすよううながすことでもあるのです。    君は賢い、だから、その力を世のため人のために使わなくてはならない。  君はやさしい、だから、その力を世のため人のために使わなくてはならない。  君は強い。だから、その力を世のため人のために使わなくてはならない。    これはどうも、人をほめるときにはこのことは必須ではないかと思うようになりました。自己肯定感や自己効力感、セルフ・コンパッションは、社会で認められる、役割を果たすことができるという点と重なって、さらに確かなものになるからです。自分がすごい、というだけでなく、みんなの役に立てるというのは、さらに自己肯定感等を強固にするでしょう。  また、人から認められるとうれしい、という自然な感情は、気を付ける点があります。その“人” というのが、犯罪組織のボスであったら、犯罪がほめられる行為になるからです。テロリストや組織犯罪の構成員はそうなっているでしょう。そこで、認められ役に立つ相手として、社会全体(それを世、人と呼ぶ)ということをしっかりと伝えます。  私は子ども若者とのカウンセリングにおいて、自然に、なんとなくこの両者、個人の個性や長所と世のため人のため、を並列させていたのですが、このほめかたの背後にある哲学として、人の長所や才能、今持っている資源は、意図的な努力だけでなく、遺伝子と周囲の環境、つまり(東洋風に言うと)ご縁、で作られたもので与えられたものであるので、幸運によるものだ、という人間観、世界観があるようです。  才能や長所は、たまたまその人に与えられたものだから、自分の利益だけに使ってはならない、というものです。西洋でいうノブレス・オブリージュという考え方に近いものです。ただしノブレス・オブリージュは偶然高貴になれたという要素がなくても成立するようですが。  大ヒットマンガ、アニメの『鬼滅の刃』での炎柱、煉獄杏寿郎の母が、まさしくこのようなほめかたをしています。 「 なぜ自分が人より強く生まれたのかわかりますか」 「 弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者はその力を世のため人のために使わねばなりません。」 「天から賜りし力で人を傷つけること私腹を肥やすことは許されません」 「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決してわすれることなきように」  煉獄杏寿郎の母は、ただ世のため人のために尽くすよう説教しているのではなく、重ねて「強く優しい子の母になれて幸せでした」「立派にできましたよ」と愛し、認め、ほめているのです。  煉獄杏寿郎はこの通りの生き方をし、世のため人のため心を燃やし、人をほめて認めます。若い未熟な炭治郎たちに叱咤ではなく、ほめて認めるメッセージを伝えます。  この煉獄杏寿郎とその母親の言動は、少年マンガであり鬼との戦いがテーマの作品だから“強さ”で表され、また腕力の強い子がいじめや暴力で利益を得ることをいましめる言葉として理解しやすいのですが、強さでなくても同様だと私は思います。上記した母親のセリフを、賢さ、運動神経、数学の才能、絵の才能、努力できる才能、親の財力、等々に置き換えても成立します。  とくに、現代社会では腕力ではなく、知的能力や学力が強さになります。それらによって私腹を肥やす機会が増えることになるので、母のセリフの“才”や“強く”には、学歴や親の財力を入れたほうがリアルでしょう。  腕力が強いものが弱いものをいじめてはいけないというのは『鬼滅の刃』に限らず言われてきたことですが、知的能力や学力についても同様、いや文明社会では腕力以上に強者であるという点を忘れがちですね。優しさ、勤勉、人付き合いがうまい、ポジティブシンキングができる、好奇心旺盛、といった特性、個性も、世のため人のために使って始めて完結するように思います。  「きみはやさしいね。そのやさしさで世のため人のため役立つことができるよ。」というのは、ただ「きみはやさしいね。」というだけよりも、自己肯定感が高まるように思います。煉獄杏寿郎も、母から強いと認められることと同時に世のため人のためを合わせて教えられたことで、すばらしい生き方ができたのでしょう。  さて、近年、才能や学歴や努力でお金持ちになった人も、そのお金を独り占めしてはならないというモラルが提唱されています。行き過ぎた新自由主義の反省から強調されるようになったのでしょう。  腕力が強いものが乱暴するのはだめなのはわかりますが、努力で得たものも自分一人の手柄として利益を得てはいけないのでしょうか?  納得いかない人も多いと思いますが、努力も学歴も、偶然その人に与えられたもので、その才能が活かされる社会であるのも偶然だという考え方です。努力できるかどうかも遺伝子や環境で決まるし、その才能を活かせる社会科どうかはその人個人とは関係なく幸運に左右されます。  たとえば、サッカーの天才でも、サッカーという競技が高く評価されない社会だったら、年俸数億円などというお金はもらえないわけです。江戸時代にサッカーの才能をもって生まれてきても、今のような地位と名誉と利益はもらえないですよね。同様に現代でも内戦の激しい戦闘エリアに生まれたら、サッカーの才能は活かすことはできないでしょう。  ハーバード大学の授業で有名な、マイクル・サンデル教授が「能力主義」に反対し、 「われわれはどれほど頑張ったとしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと。才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。」  と言います。努力や実力を重視しその成果は自分の手柄だとしてしまうのは、幸運や偶然を無視している点で事実とは異なるし、また謙虚さや思いやりや感謝を失ってしまうのでしょう。  私はそれに加え、書いてきたように、自分の長所や才能は世のため人のために使ってこそ、という思想がないと、自己肯定感や自己効力感、セルフ・コンパッションも結局のところ確立しないと思っています。  子ども若者をほめる際には、その効果を高めるためにも、その長所で社会に役立てると伝えていきましょう。 (文献) 吾峠呼世晴  『鬼滅の刃』8巻  集英社 マイケル・サンデル  『実力も運のうち 能力主義は正義か?』  早川書房 
文化論、心身論、書評 · 02日 8月 2021
 世の中には直感的に物事をつかむのが得意な人がいます。心理臨床家にも、なぜか話を聞いてすぐ問題の本質をつかんでいたり、まだ話していない事実を言い当てたりすることがあります。武道家にもいるでしょう。これは伝説的な話になりますが、一流の武道家や武術家には、背後から襲われてもわかるとか、夢のお告げで襲われることを知っていたりといったエピソードがあります。  このような少々まゆつばもので、ちょっと神秘的な直観力ですが、とりあえずそういった力があるとして、どうやったら身につくのでしょうか?  直観力は合理的なものではないため、身につけ方もマニュアル的で確実にできる方法や近道はありませんので、少々抽象的になってしまいます。それでも、二つの方法を考えてみました。  それには、ユングの考えが参考になります。  ユングは、人間のこころの機能を4つに分類しました。思考・感情・感覚・直感、です。思考は、その通り知的に、合理的に考える機能ですね。感情は価値を与える機能です。何かを見て、好きと嫌い、快と不快など、主観的に判断するための機能です。感覚は、生理的刺激を心理的に感じる機能です。外界を正確に認識したり、自分の内的な感覚を独特につかんで芸術を作り上げる機能でもあります。直感は事物の背後にある可能性を知覚する機能です。無意識的に理解するので、急に結論を出してもどうしてわかったか本人にもわからなかったりします。  ここで興味深いのは、ユングは思考と感情を合理的機能、感覚と直感を非合理的機能としています。思考はわかりますが、感情も合理的なのです。  どうしてかというと、感情も、なんらかの価値判断をするという点で合理的なのです。思考では、「正しいか間違い」、感情では「好きか嫌い」、のように、その人にとってのなんらかの価値を判断するのに役立つ力だからです。  そして、感覚と直感は非合理的機能と言われます。感覚は良いも悪いもなく、自分の生理的刺激をそのまま受け取る機能です。暑いのは嫌だといっても、暑いものは暑いですよね。正確に正直に、刺激をこころに伝えてきます。直感も、過程や方法はよくわからないのけど結論が出てしまったという点で、合理的ではなく、そのまま受け入れるしかないのものなのです。  日常生活を送るには、合理的機能を働かせた方がスムーズに便利にいきますよね。それゆえ、人は合理的機能をよく使い働かせているので、非合理的機能は上手に扱えなかったり弱まっていたりします。  ここで、このユング4類型を参考に、また武道を参考に、さらに私の個人的体験から、直観力を鍛えるには、三つのルートが思いつきます。  一つは、合理的機能を弱めるトレーニングです。つまり、自分にとっての価値判断をしないようにする訓練です。心理療法家が直観力が高まるのは、この訓練や経験をしているからではないかと思うのです。  心理療法家が、個人としての信念や宗教、道徳観、常識、美意識を持っていても、様々なクライエントさんと出会って話を聞いていくには、自分の価値判断をとりあえずでもカッコに入れる必要があります。  また、様々なクライエントさんと出会っていくと、自分の信念や常識が通用しない人や事態に出くわします。その驚きを繰り返し、判断を保留するうち、自分の信念や常識はゆらいで、簡単に価値判断できなくなります。それでもゆったりと落ち着く経験や訓練を通じ、自分にとっての非常識にこころをさほどゆるがされなくなると、合理的機能が弱まります。そうすると、それまでうまく使えなかった感覚や直感が作用し出し、強化されるのです。  つらい経験、しかも人生が変わってしまうほどの過酷な体験をした人に直観力が高まることも、このことから説明できます。自分のそれまでの常識が変わるほどの衝撃を体験すると、合理的機能が弱まります。激しく傷つけられたり逆に傷つけてしまう体験です。「僕は取り返しのつかないことをしてしまった!僕はララアを(略)」みたいな体験ですね。そういった体験をすると、自分が正しい、世界とはこうだ、という自分の価値判断が信じられなくなりますので、直観力が高まることなのでしょう。  もう一つのルートは、感覚をトレーニングすることです。これは武道家が直観力を身につけるルートではないかと考えています。非合理的機能である感覚に意識を向けるトレーニングで、思考と感情を抑え、非合理的機能に敏感になっていきます。  一つ目のルートは、合理的機能を弱めるという方向、こちらは、直観と同じ非合理的機能である感覚を強めるということですね。武道では自他の身体の動きや力の方向、気の流れ、剣などの武器を握ったり振ったりするときの感覚などに意識を研ぎ澄まします。滝行や瞑想もそうでしょう。そうすると感覚が鋭敏になると同時思考や感情は弱まっていき、非合理的機能である直観力が高まっていきます。  心理療法でも、マインドフルネス瞑想では身体の感覚に意識を向けることで思考や感情に振り回されなくなっていきます。動作法やフォーカシング、自律訓練法など、身体を使う心理療法でもおそらく同じ意味があるでしょう。こころの問題や悩みと言うとき、その「こころ」とはたいてい思考と感情です。そこを弱め感覚に気づいていく心理療法は、武道家の稽古、修行と似たような効果となっていると思います。  一つ目、二つ目とも、感情と思考を弱める点では同じことです。思考と感情は、上記したように、判断や分別、好き嫌い、正誤にかかわる機能です。  合気道においても   「人は無我の境に入れば、相手の動きを正しく察知することができるようになる。    この直観力は武道において特に必要とされる。    (中略)    何の分別をはさむ余地もなく、機に応じてすらすらと出て来る動きをいうのである。」  と言われていますが、ここでいう「無我」「何の分別をはさむ余地もなく」というのは、ユングが言う合理的機能を弱めることを指していますね。「無我」とは自分の価値判断を捨てること、「分別」とはまさに合理的機能ですからね。  さて、三つ目の重要なルートとして、直観はそれまで蓄積してきた知識や情報や身体感覚、運動が、意識しないほど素早く出たという面があるように思います。勉強と稽古、訓練で学んだことが、思考を通じずに出現することを直感と呼んでいる可能性もありますね。つまり、日々の勉強や稽古、訓練をしないで直感を身につけることはできません。  大事なことですが、上記三つのルートを経ずに直観をいきなり高めようとすることはやめたほうが良いと思います。先ほどから言っているように、直観は合理的なものではないので、直観を正しく理解し把握している人はいないため、いきなりそれを高めるという訓練法は存在しません。問題のあるカルト宗教やオカルト思想はここで間違えてしまうことも多いのではないかと思います。  自分の信念や道徳、常識、美意識を疑い、価値判断をしない、つまり先入観を捨て客観性を求めていく訓練、特別な超能力ではなく、普通の感覚に意識を向ける訓練、こつこつと勉強し知識を頭の中に蓄えていく訓練、こういった地道な訓練と勉強なくして、直観力は高まることはないと思います。  それゆえ、感情的な好き嫌いが多い人、善悪を決めたがる人、自分を正しいと思い込む人、信念が堅い人、常識を疑わない人、常識の逆張りをしたがる人、などは、直観力がない傾向がありますね。価値判断しまくりですから。  あともう一つ。直観力というのは、合理的なものではないので、便利に使うこともできません。直観力を使おうとか、働かせようとかしても、自分の意志ではできないのです。それは「自然に」起こるものなのです。起こりやすいよう上記した努力をしたり、環境を整えたりはできますが、それでも本当に直観力が働くかは運次第です。  ですので、直観力があるという人に、「じゃあ、私の〇〇をあててみてよ(占ってよ)。」みたいに言うと、言われた方は「よし、あててやろう。」となります。そうすると、意図的・意識的となって合理的になるので、直観の力は弱まります。  また、直観力をアピールする人物も疑った方がよいです。なぜなら、意図的になると使えなくなる直観力を、自分の意志で意図的に使えると言っているんですから。それはまず嘘か自己愛です。  「自分には直観力がさえるときがあるけど、それはいつ出てくるのかわからないなあ。」というのが、直観に優れる人の誠実な姿勢だと思っています。  というわけで、「直観力の身につけ方」と言いつつ、それは実はお手軽にはできないという結論でした。 文献 河合隼雄  『ユング心理学入門』  培風館 大住誠  『新瞑想箱庭療法』 誠信書房 植芝盛平監修 植芝吉祥丸著  『合氣道』  光和堂
文化論、心身論、書評 · 26日 7月 2021
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文化論、心身論、書評 · 09日 6月 2021
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文化論、心身論、書評 · 19日 5月 2021
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文化論、心身論、書評 · 30日 1月 2021
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文化論、心身論、書評 · 09日 12月 2020
 いよいよ12月。2020年、令和2年もあと少しですね。今年の年末年始は家にいることが多くなりそうです。そこで、ぜひご家族で昔ながらの遊びをすることをご提案します。...
文化論、心身論、書評 · 05日 10月 2020
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文化論、心身論、書評 · 02日 9月 2020
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文化論、心身論、書評 · 28日 8月 2020
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